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僕なりのユーチューバー紹介

みなさまこんばんは。
あたかもテレビドラマ「世にも奇妙な物語」のようなシーンが現実に繰り広げられています。
みなさま、どうか気をしっかり持って、この苦難を乗り越えましょう。

最近つくづく感じること。
それは、60超えた再雇用の人は、それらしく控えめにしていること。そうすればみんなはよくしてくれるでしょう。
「なんだおまえそんなこと今頃気付いたの?」と言われそうです(笑)
ですので、会社ではガチにやり過ぎるとストレスが溜まる一方ですので、理解者の人とはうまくやるにせよ、なるべく社外の活動を広げるのがいいのかな、と。
(以上、半分冗談です)

さて、これだけ在宅の人が多いとなると、ユーチューブを観ている人が多いでしょう。
ユーチューブに限らずですが、日本人は何かを観る時、「よいものかよくないものか」のような二者択一で、しかも情緒的に観る傾向があります。
もっと言うと、人の評価とか、あらゆる物事の見方において、そのような傾向があると思います。

例えば、このブログで何度か紹介しました、さゆふらっとまうんどさんこと平塚正幸さん。
社会活動家ユーチューバーとして支配者層設計の構図を示したり、冤罪や警察の体質に体を張っての問題提起、いろんな社会問題への斬り込みなどを行っています。
最近では、N国党の”アンチ枠”で参院選に出たり、N国党の内部を暴いたり、自ら国民主権党を作ったりしています。

このさゆさんに対する世の中の評価は、過激なことを言うカッコいい人、または、とんでもない人、という評に二分されてしまっています。
アンチがいっぱいいるのですが、アンチの人たちによる動画とか書き込みはほとんどの場合、さゆさんの言動の表面的なことしか見ていなく、そこを悪く言うことに終始してしまっています。
僕のさゆさんの見方は、物事の本質を考えられる力です。
1つの社会問題について、とても卓越した見方ができ、立体的な考えをできる人です。
ただし、「***という見方ができるので、+++という可能性がある」と言っておけばよいところ、「+++である」と断定してしまう場合が多く、僕はそこは厳しく見ています。

すなわち僕が言いたいのは、ユーチューバーから魅力的な部分を「抽出」すればよいのです。全体あるいは結論部分で評価しなくてはいけない、などということは全然ありません。

似たような意味では、橋下徹さんとかホリエモンとかは、自分の上司とか部下のようなガチな関係者であれば困ってしまいますが、その発言から何かを抽出するとなると、かなり得られるものが多いと思います。
ちょっと脱線ですが、ガチな間柄の人とうまくやるには、ユーチューバーからよいものを抽出するようには行きません。それはそれで、一大研究対象ですので、興味のある方はおっしゃってください。

さて、人間の種々な欲の中で、最も深遠な欲は、知的好奇心を満たそうという欲である、と僕は考えます。
そんな欲に応えてくれるユーチューバーを探し当てることは、砂漠の中を放浪した末にオアシスを見つけるが如くの喜びです。

そんなユーチューバーの一人が、『予備校のノリで学ぶ「大学の数学・物理」 』をやっておられるヨビノリたくみさんという方です。
まだお若い方なんですが、自らすごい勉強家ですし、知の喜びを知り尽くしていますし、それを世の中に伝えるための新しい述を開発した人です。
正攻法で知的なことをアピールするのは難しい中、予備校的な語り方で、多くの人に知的好奇心を身近なものにしたという、見事なマーケティングです。

主に数学や科学の話なので、苦手なテーマと思ってしまう方が多いかもしれませんが、まずはご覧ください。理解しやすいですし、引き込まれますよ。
では、たくみさんの数ある動画の中でもおもしろい内容の動画を3つほど紹介します。

相対性理論を中学生でもわかるように説明
https://www.youtube.com/watch?v=voFHToRM4xI&t=6734s

将棋の複雑さを数学の場合の数で説明
https://www.youtube.com/watch?v=7QcpShRfqGA

数学の超難問であるabc予想(日本人数学者がユニークな方法で解いた)とはどんなものかの説明
https://www.youtube.com/watch?v=PIUCfN08p8M&feature=emb_rel_end

中田敦彦さんの歴史などの講義もかなり知的好奇心を満たしてくれます。
ただし、内容的に間違っていることが比較的多いことから一時炎上してしまったのは、日本人のよくない癖です。(よいか悪いかだけの感情的判断)

最後に。
知的好奇心を得る暮らし方、会社でどう仕事を進めるべきか、メンタルヘルスなどでプレゼン可能です。
出張プレゼンも可能です。この状況が終息したら行きますよ。
ご用命あればおっしゃってください。

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今こそ物事を定量的に示すべきです(コロナ禍に鑑みて)

みなさまこんばんは。

訪問者数のカウンター表示がここ数日おかしくなりました。
1日当たりの訪問者数が、3日前には正しい数の1割程度しか表示されませんでした。
一昨日は8割程度、昨日は9割程度となり、回復されつつはあります。

この異常が他の方でも起きているのかどうか知りたくて、いろんな方のブログを拝見しました。
まずはとても驚いたこと。訪問者カウンターってほとんどの人が設置しているものとばかり思っていましたが、そんなこと全然ないどころか、設置していない人がほとんどではないですか!
これにはめちゃ驚きましたね。だって、これまでそんなこと考えてもみなかったので。
(かく言う私も英文ブログの方には設置していません(笑))
正確には数えていませんが、カウンターを設置している人は大体2割くらいのようです。
その少ない方のカウンターを見させていただいたところ、約半数の方に僕と同じ異常が見られました。
(カウンターの上にカーソルを置くと、過去1週間の訪問者数の推移を見られます)

この訪問者カウンターの表示数というのは、そもそもが正しくありません。
少なくとも僕の場合は、今回のような異常がなくても、正しい数の8掛け程度しか表示されないようなのです。
例えば、訪問者履歴には1日300名程度記録されているのに、カウンターには240名とか。
ただ、その「8掛け」のような係数は毎日一定のようです。だから、多い少ないの推移は反映されています。

ま、いずれにしても絶対数そのものにはさほど意味はないので、一つの目安として、大体どれほどの方がいらっしゃったというバロメーターとして捉えています。
それにしても、訪問者カウンターそのものが大多数のFC2ブロガーさんには関係ない事柄であったのを10年間全く気付かなかったわけで、「やれ累計10万人ご来訪多謝」とか言っても空回りしていたことになりますね。にもかかわらず声をかけていただいた方には本当に感謝です。

さてさて。大変なコロナ禍です。
みなさま本当にお疲れ様です。
新型のウイルスですし、危険な面、未知の面があるので、国民一致協力の上、不便を我慢し、難局を乗り越えるべきです。
しかし一方では、問題点も確実にあると思います。今のままでは国民は疲弊してしまうでしょう。
では、僕なりに今の問題点を挙げてみます。

①小池都知事をはじめとするリーダーの要請には、データに基づく定量的な説明がないこと。
②マスコミは嘘は言っていないにせよ、一部のことを、さもそれが全てである如く歪曲して報道していること。

今現在、大事なポイントは次のような事柄だと思います。
・今回の新型コロナウイルスの危険なところ、危険ではないところは何なのか。どんな特徴を持ったウイルスなのか。
・何が分かっていて、何が分かっていないのか。専門家はこれから何を突き止めていこうとしているのか。
・感染者のうち、具体的にどのような人が他者に感染させやすく、どのような人がさせにくいのか。具体的にどのような状況が感染させやすいのか。
・なぜ日本だけが感染者数が他国に比べ極端に少ないのか。
・現在の日本の感染者数では、自粛をすることによる健康的リスク回避のプラス面よりも人々の困窮のマイナス面の方がはるかに大きいという判断もできる中、なぜ自粛を行うのか。さらにはなぜロックダウンの可能性があると判断できるのか。
・現在の自粛が意味があるとして、では今後どのくらいの期間でどのようにウイルスを抑え込む(あるいは長引かせる)のがよいのか。そしてその作戦は上記のウイルスのどの特徴によるものなのか。誰のどのような行いに基づくものなのか。
・健康面の戦略と共に、人々の生活を守るため、何をどうすれば最も損害が少なくなるのか。

現状では、これらのことは十分に説明されておらず、しかも定量的には説明されていないと思います。

オーバーシュート、ロックダウン、クラスター、さんみつ・・・。言葉遊びだけでは困ります。
多くの人が、検査の陽性数の累計数が毎日増えていくことをもってでしか感染拡大と言っていないマスコミの報道に翻弄されています。

全てのことが危険回避のために同じように作用するのなら、今のような説明で誰もに自粛要請さえすれば事足りるでしょうけど、いろんな事柄が複雑に入り組んでいるわけですので、「**が**であるから、**の期間、**の状態にする。そのために、**の人には**を要請し、**の人には**を要請する。」のような説明をするべきです。
しかもそれを、データに基づき定量的に説明すべきです。
できる限り多くの人が納得できるように、重要なポイントについてのプラス面、マイナス面を定量的に説明し、ゴールとその道筋をできる限り明確にすべきです。
分からないことがあり、難しいことがあるからこそ、定量的に説明すべきなのです。

ではこの状況に対しどうすべきなのか。
実は、僕なりに上記したことの一つ一つに考えを述べようと思ってある程度まとめていました。
そんな中、今朝友人より、京大iPS細胞研究所の山中所長(教授)の立ち上げたHPが大変興味深いので見てみたらどうかとのお話をいただきました。
https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
早速見てみたところ、これはもう、まずはこちらをブログで紹介すべきと思い、急遽書くことにしました。
山中先生はウイルス学の専門家ではありませんが、同じ医学関係の研究者として、役に立てないかということでHPを立ち上げたとのことです。
何より、研究者として一流ですので、医学的問題を多角的に、そして定量的に解析し、問題解決法を提言することにおいては、一流であろうことは十分に予想できます。
そして実際HPを拝見したところ、全く期待を裏切らない構成と内容になっています。

今回の新型コロナウイルスは、多くは無症状または軽症で済むものの、感染力が強く、感染者の約5%の人は救命装置がないと助からないこと(別の研究者も言っていました)という危険な部分と、そうでない部分を分かりやすくまとめられ、分かっていることと分かっていないことをしっかり分けて示しておられます。
多くは自らの知見というよりは他の研究者の引用であるでしょうけど、多くの論文等を読んで、客観的にまとめていると思います。
何より定量的です。

そして具体的な提言もされています。
例えば、感染力のないまたは弱い感染者を受け入れる状況を作るべきだなどの方策など。

とにかく、訳もわからぬ説明で国民に漫然たる自粛を求めても仕方ありませんね。
その意味では山中先生の取り組みはとても光ります。

僕は、山中先生が示しておられることの中には、違うのではないかと思うこと、あるいは賛成できないこともあります。
でもこうして、体系的であり定量的である考えを一流研究者の方が、ネットで示すのは大変よいことだと思います。

テレビも、もっといろんな論点を多角的にきちんと報道し、国民がしっかり考えるようにしないといけないと思います。

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言葉の移り変わりというもの

みなさまこんにちは。
昨日は夏日。今日は雪。
すごい変化ですね。
お元気でしょうか?

今日は言葉について語ります。
なお、今回の記事には既出の内容を含みますが、最近新しい読者様も多いことからご了承ください。

言葉というものは常に時代と共に少しずつ変わっていくものです。
古い世代の人たちは、こうした変化を苦々しく思うことが多いです。「若い奴らはなってない」とか言って。

「ら抜き言葉」が最初に出現してからもう久しいです。
最初はすごくおかしいと思っていましたが、もうすっかり定着しました。
もう15年くらい前でしょうか、国語学者の金田一春彦先生が、「こうした言葉の変化は時代の要請によることが多いので、必ずしも否定しない」と言っていました。
そのうち「ら抜き言葉」も正式な文法の一態様として認知されるのでしょうか。
僕はこの金田一さんの意見を聞いた時は到底受け入れがたかったのですが、その後だんだん言葉の変化に寛容になってきまして、一部は自らも使うようになってきています。ただし、一つ一つよく考えて自分なりに判断してから使うようにしています。
単に言葉の文化を劣化させるような安易な流行には乗らないようにしています。

呼応の副詞の使い方も時代と共に変わりやすいと思います。
例えば、「全然」。
正しくは、「全然****でない」という風に、否定を伴います。
でも今は、若い人を中心に「全然OKだよ」のように肯定でも使います。というか肯定の場合の方が多いくらいかもしれません。
僕が学生時代から既に使われ始めていましたので、もはや世間には受け入れられたように感じます。
実は今では、僕も「全然元気ですよ」のように使うことがあります。ただし相手を選んでですけど。

僕が中学の時(つまり50年前)、当時かなり年配の古文の先生が、ある授業の時、余談の中で次のようなことを言いました。
「君らねえ、『絶対に****だ』というように肯定で当たり前に使ってるけど、本当は『絶対に****ではない』と否定で使うのが正しいんだぞ」
当時の先生にとって、「絶対に」の使い方のおかしさが、僕の感じた「全然」のおかしさと似たようなものだったのでしょう。

昔であれば、「ありがとうございました」、「お疲れ様でした」と言ったのを、今では若い人を中心に、「ありがとうございます」、「お疲れ様です」と言います。
これも最初はかなり違和感がありましたが、僕はだんだん受け入れてきています。
例えば、仕事を終えて誰かが帰宅するのに「お先に失礼します」と言ったのに対し、「お疲れ様です」のように。
40代後半以降の頭の固い人たち(失礼)は、この時代の変化がわからず、「お疲れ様でした」と自分だけ言い続けています。
僕はいろいろ考えましたが、どうも「お疲れ様です」のほうがしっくりくるんですよ。少なくとも毎日のお決まりの挨拶においては。
何か具体的なことに対しての労いには「お疲れ様でした」と言うかもしれません。
「ありがとうございました」と「ありがとうございます」の差はもう少し複雑な気がします。
例えば、コメントの返事として「ありがとうございます」としか書かない若い人が多いのですが、僕は今でもコメントのお返事には「ありがとうございました」が多いですね。
「お疲れ様です」「ありがとうございます」という現在形は、定常的な慰労や感謝の気持ちを表す場合に使い、「ありがとうございました」は具体的な事柄に感謝を示す場合に使う、という僕なりの切り分けを考えています。
そうでないと、「ありがとうございます」という現在形だけにすると、漫然過ぎて微妙なニュアンスを出せなくなる気がするからです。
よって、「いつもご訪問ありがとうございます」「今回の記事に対してコメントありがとうございました」のように使っています。
まあこれとて柔軟に考えていきますけどね。

「こんにちわ」「こんばんわ」という書き方が一時流行りました。
一時は大の大人も書いていましたが、今はほとんど見かけなくなってきています。
多分、これらは言葉の劣化であると社会が考えたからでしょう。
「こんにちは」「こんばんは」のように、「は」である所以があるから、単に発音さえ合えばよいというものではないからでしょう。

最近、「違く・・」という言い方が一部の30代以下の人たちに流行り始めています。
例えば、「違わない」の代りに「違くない」、「違っていて」の代りに「違くて」のように言います。
これも最初はすごくおかしいというか、単に言葉を知らない人の話し方かと思っていたら、どうも広まりを見せているようなのです。
しかも不思議なのは、いい意味でインパクトを感じるのですよ。
考えてみたら、「よい(良い)」という言葉も、「よくない」「よくて」のように「く」を伴うことから、「違く」も定着してくるのでしょうか。

以上は、使う言葉の変化についてでした。
次は、同じ言葉でも解釈が時代と共に変わってきたと感じる言葉を2つ挙げてみます。

「確信犯」という言葉。
よくこんな使い方をしませんか。
ある職場での話。遅刻常習者のAという社員がいるとします。
Aはある日、友人と飲み会で深酒をしました。案の定(そういえばこれって今の若い人はほとんど言わないなあ)、Aは二日酔いになり、翌朝大遅刻しました。
一緒に飲み会に参加していたBが翌朝言うには、「Aは飲み会の途中から、『いいよいいよ明日遅刻するからさ』と言ってましたよ。全くAは確信犯ですよね」。
つまり確信犯というのは、自分が悪いことを十二分に承知の上、敢えて悪いことを犯すことを意味するのが、今の標準だと思います。

しかし、「確信犯」の意味するところは昔は違っていました。
例えば、国家とか軍部が国民を支配し縛っていることよりも、自分の考え方の方が上位にあるので、その考えに則って行動したことは必ず正しいのだ、のような意味だったと思います。
戦前とか戦後直後の活動家に多かったような気がします。
数十年前のカルト教団の教祖が、殺人をすることを自らの考えにより正当化しているのも似ているかもしれませんが、少しでも「本当はだめなんだけど」という考えがある場合は確信犯とは言わず、全く正しいと信じ切っている人を確信犯と呼んでいた気がします。

もう一つは「禅問答」という言葉。
元々は仏教的には悪い意味はなかったのでしょう。
文字通り禅的な問答。
それが転じて、高尚なやり取りではあるけど、要領を得なくて、不毛なやり取り、のような意味で、やや嘲笑を込めたコメントとして「あれは禅問答のようだ」という使い方が、何十年くらい前から出てきました。
しかし今では、ほぼ悪い意味でしか使わなくなったように思います。しかも、内容的に禅的かどうかは問わず、とにかく抽象的で不毛な議論のことなら何でも指すようになった気がします。

こうした解釈が変化してくるのは何によるものなのでしょう。
時代の要請ということもあるかもしれませんが、そもそも言葉というものは何世代も続いて同じ解釈が伝承されるのは難しいのかもしれませんね。
新しい世代の人が考えることがだんだん定着していくのでしょうね。
ただ、単に言葉の文化が劣化する一方の変化はよろしくないと思います。

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年賀状について

みなさまこんにちは。

実は前回の記事は炎上覚悟で書いた。
「いったい何を古臭いことを言っているんだ! ネットという自由空間ができたのだから、自由なコミュニケーションをどんどんやることこそがいいのだ!」という反論が多くあるだろう。
僕はこうした自由なコミュニケーションを否定しているのではない。
主客転倒してはいけないと思うのである。
ネットという自由空間、しかも情報量が無限大で、コミュニケーションの質と量の制約が何もない空間では、放置しておけば人々は感覚にのみよるコミュニケーションが主体になってしまう。
僕が前回書いたような”王道”のコミュニケーションは、ネット時代だからこそ主体にならなければいけないと考える。
その「主」が柱になった上で、いくらでも自由なコミュニケーションを楽しめばよいと思う。
そうした考えを強力に推し進めないといけないと考えており、少しでも人生経験の長い僕らがそれを牽引しないといけないと思う。

では本題。

僕はこれまでずっと”年賀状硬派”であった。
日本人独特の習慣としてとても大事なものと考えてきた。
なるべく誠実に、しかもできる限り元旦に届くように心掛けてきた。

しかし最近は我が国の年賀状の総数が減っている。
コミュニケーションの手段がこれだけ多様化しているのだから、仕方ないのかもしれない。
ある程度許容して理解を示す必要はあるだろう。

それにしても、今年はとても不可思議なことが起きた。
76通出したうち、11通が返信が来ないのである。
これまでの長い人生のうち、年賀状の返信が来なかったことなどほとんどなかった。(ただし、喪中の年の直後は除く)
数年に1回、1通の返事が来ないようなことかあるかないか程度だった。

「返信しないとは不義理な奴め」とかの文句を言いたいのではない。
不思議過ぎるのである。
昨年1年、不義理を働き過ぎてしまったのだろうか?
それとも、年賀状を書かない考え方が急速に拡大しているのだろうか?
はたまた、何らかのミスにより届かない?

今年はメールで返事をくれた方が数名いらした。
本音を言えばハガキのほうがいいのだが、人の考え方なので受け入れるしかない。

そして今年は由々しきことが起きた。
なんと、正しい住所を書いてくださったにもかかわらず、郵便局のミスで該当住所が見当たらない旨、その方に返送されてしまったのだ。しかも年明け何日も経ってからの返送。
その方は年内早々に投函いただいたにもかかわらず、こんなことになってしまった。

郵便局にお勤めの、ある知り合いの方のお話を思い出した。
最近は年賀状の数は減っているのだが、それ以上に局員の方の人数を減らされているので、年賀状の業務は多忙を極めている、とのこと。
あるいはまた、かつてたまにニュースで、年賀状配達のバイトが、面倒なので年賀状の束をドブに捨ててしまった、のようなこともあった。
もしかしたら、11通の中にはこのような配送過程でのミスによるものもあるのかもしれない。
想像だが、年内の各郵便局での年賀状の仕分けや配送はかなり大変なのかもしれない。以前より元旦に到着する率が減ってきていると感じるのは僕だけだろうか。

配送ミスはともかく、元日に必ず届くように出してくれる人、いつも元日よりも遅れがちな人、こちらが出してからでないと出してくれない人、など人により考え方が違う。
これは、必ずしもいい悪いではなく、その人の年賀状というものの捉え方である。

これまで僕は、年賀状を誰に出すかについては誠実路線で来た。
例えば、こちらから出さないとくれない人とか、いつも遅れがちな人に対しても、元旦に届くように出してきた。
でも来年からはこの考えを修正していく。
理由は2つ。

1つは、相手に年賀状を強要することをなるべく避けようと思うから。とくにこのような時世に鑑み。
もう1つは、もう歳なので、誠実路線で自分が勉強するよりも他者に影響を与えることにシフトしていくので。要するに、多少の不義理のリスクは負ってでも自分のやりたいこと言いたいことを実現する比重を増やすということ。

ところで、今年のお年玉くじは、切手が1つしか当たらなかった。
確率から言えば2つくらい当たってもよさそうなものだが。
1番違いがいくつもあった。
でもこんなもんだろう。

実は昔、僕は1等に当たったことがある。
また身近な人が1等に当たったこともある。

これを聞くとすごくびっくりされる方がおられると思うが、実はそんなに特別なことではないのだ。
そのあたりは、2010年11月17日の記事『Coffee Break Beatles No.60 「確率の話」』をぜひご覧いただきたい。
特に確率に関心ある方はぜひ!

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世の中ヤバいと言わざるを得ません

みなさまこんにちは。
今年も残すところ3日になってしまいました。
慌ただしいですねぇ。
お元気でしょうか?

僕の体のサイズは、LとLLの中間よりややLLの側です。
Lでも着られないことはありませんが、やや窮屈です。僕は肩幅が広く手もやや長めなので、Lだと手とか肩が締め付けられるような感じになってしまいます。
よって、着るもの穿くものを買う時はLLを探すのですが、LLの展示、在庫は少ないです。
特にバーゲンではLLは希少です。
先日、パジャマ兼部屋着を買うため、Sむらへ行ったのですが、MやLは山のようにあるのですが、LLは上下、1つずつしかなかったため、仕方なくそれを買いました。
LLを買うためにはデザインや柄を犠牲にせざるを得ない羽目に陥ります。
逆に、大きい物サイズ売り場では3Lとかばかりで。
最近の日本人の体格の向上から、LLの需要は多いはずなので、要はすぐに売れてしまうのでしょうね。まさかメーカーはLLをあまり作っていないということではないでしょうね。

1週間ほど前に都内で全社忘年会がありました。
全ての人が一同に会して忘年会を開く意義はあるでしょうけど、どんな人とどのように話をするかって、結構面倒ですし気を遣いますね。
そして実際に参加して、楽しかったし、いろんな人と有意義な話ができたのですが、その一方で、「この人は何でこんな立ち振る舞いをするんだろう?」とか「この人はなんでこんな甘えたこと(あるいは失礼なこと)を僕に言うのだろう?」とか「この人は何て計算高い(あるいは画策をする)のだろう?」と思うような場面も一杯ありました。
おしなべて言うと、その忘年会は、よかったこと=51、よくなかったこと=49のようなバランスでした。

かつての忘年会と言えば、皆、普通に礼儀を尽くし、正直に気持ちを表現し合い、相手を労い、自分にとって関わり合いのある人に自然に礼を言い会話を交わしたものでした。
よくないことも少しはあったけど、大半はよいことでした。
そして、そのよいことも予測可能だったのです。

こうしたことは忘年会に限らず、ふだんの職場でも大体こんな感じです。

職場の人々のこうした最近の「変化」とは、僕が歳を取ったから感じ方が変わったものによると思っていました。
ところが、「どうも違うのではないか」と思い始めたのです。

ユーチューブに目を転じてみましょう。
最近の話題の一つはN国党関係者の間のバトル。そしてそれを評論する人。そしてさらにそれを評論する人。
いろんな人の考え方のせめぎ合いが複雑にあるので、確かに興味深いと言えます。
N国党の存在自体が旧来の政治や社会を逸脱するので、そこに関わる人はユニーク過ぎて昔の常識では測られない人たちです。
さらにそういう人たちが、画策を凝らし、都合の悪い情報は隠し、自分に都合のよい情報を、知恵を絞って発信しています。
炎上したり提訴したり・・・と、それはそれは複雑怪奇です。
もちろん、頭のいい人たちが中心になっているので、斬新で有用な考え方も多いのですが、とにかく進むべく方向が明確でないのと、個人の考えがバラバラであり、しかも分かりにくいとあっては、まさに混迷を極めているわけです。

そんな中、二次評論者、三次評論者がごまんといるのです。
そうした評論者の中には鋭い人もいれば、単に井戸端会議程度のおしゃべりの人もいます。

重要な視点の一つは、これら一連の全ての人がwin-winの関係ではないということです。
全ての人が正直に溌溂として自分の意見を言っているのではないのです。
中にはそういう人もいますが、そういう人の考え方もバラバラです。
そして、せめぎ合い、けん制し合いで、相手を貶める人が結構多いのです。

まあ、こうした話題で多くのユーチューバーが広告収入を上げ、さらに新たな広まりを見せているのですから、一種の新しい業界と言えなくもないです。
そして、こうした話題の”火種”を与える人(N国党関係話題で言えば、TさんとかHさん、そして最近有名になった評論のH-Tさんとか)は、新たなビジネスを創出する人と言えるかもしれません。
ただですね、こうしたネットの”炎上ビジネス”は、かつての健全な日本の産業のような、新たな需要や雇用を産むような付加価値の連鎖ではないことと、進むべき方向が一定ではないことと、たとえ一定だったとしても人の解釈がバラバラなので、人々は意識や目的を共有できないと思います。
よって、関わる人たちは精神的な負担が大きいのです。

これはまさに現代の社会の縮図ではないでしょうか。
社会全体がこういう状況になってしまっているのだ、だから職場でもこうなのだな、と思うようになったのです。
分かり易く書くために、単純化しましたが、実はもっといろんな場面で同様なことを観察していまして、このような考えに至った次第です。

結局、みんなそうしないと生きていけないのだと思いました。
正直に素直に礼節を尽くし、感じよく振る舞っていては負けてしまう世の中なんだと思ったのです。
それが正しいとすると、すごく問題ではある一方、みんな苦しいのだからお互い様だから、急に同胞的に見えてきたのです。
これでまず少し気が楽になりました。

問題の根は深いけど、みんな一緒なんだねと言う安心感。
だからまず、皆、このことを共有して一緒に考えましょうよ、ということです。

今の社会の問題の解析と解決法。
今日はそれを論じません。
答えは難しい。大西つねきさんの主張するような根本解もあるけれど。
利益出すばかりの旧態依然たることやめて、人間らしい生活、子供を育てる人に普通にお金を出す世の中にしたいですね。   
しばらく黒字を食いつぶすでもいいではないか。

そして最後は歳のこと。
自分は若いつもりで皆と接してきて同等のような感じで言動してきたのだけど、実は、全ての煩悩を脱した淡い人間のようにどうしても思われてしまうのでしょう。
だから人は自分のわがままを平気でぶつけてくるのかもしれません。
こう考えると、いろんな人の失礼な言動はそれほど気にならなくなってきます。
そうした邪念を振り払い、本来自分のやりたいことに特化し、そして世の中を変えるんだ、さらには自分の後輩たちも救うんだ、と考えられるようになり始めた気がしたんです。

最近、なぜこんなに苦しいのだろう? と思ってきたことに対し、社会のことに関し、そして自分自身のことに関し、少しは何かよい方向に向かう感触が得られましたので、書いてみました。

ではみなさま、よいお年を!

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プロフィール

ST Rocker

Author:ST Rocker
ビートルズ解析ブログへようこそ!
つくば-千葉-さいたま の三角形を行き来していますす。
モットー:理系なのに熱く音楽、政治・経済を語る。
酒と冒険と音楽をこの上なく愛し波乱万丈の人生を送るB型です。
コメントは本筋に沿ったものをお願いします。

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