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ご当地ナンバー続々誕生す

2020-5-14(木) 20:00に末尾に追記しました。

みなさまこんばんは。
前回記事(多重録音)ではたくさんのコメント、拍手、ありがとう!!
とっても励みになりました。

新型コロナウイルスの陽性者数が大分減ってきました。
間もなく、それなりの”第一次終息宣言”と相成ることでありましょう。

ここで言いたいのは、ここまで優秀に陽性者数の収束を迎えたのは、首相や都道府県知事(ごく一部の例外は除く)のリーダーシップではなく、日本人の魂と知恵によるものに他ならないと考えます。
単に”三密を防ぐ”などということではなく、物を介しての接触感染を含めてのあらゆる感染の可能性を検討した、いろんな業者さんや一般市民の真摯な態度と、具体的な方策を徹底して考案し実践した賜物であると考えます。
首相とか知事なんてのは、”神輿に乗ったリーダー”ですよ。僕らが支えているんですから。

高校の同期が、一流の感染症の研究者であることを思い出しました。
彼は既に、インフル等の感染症においては優れた業績を上げています。新型コロナについてもググってみたら、彼は既に、製薬会社と連携して検査キットを開発していました。
同期がこのような活躍をしているのは本当にうれしいですし、そして自分も、コロナそのものには貢献できないけど、考え方とかにおいては少しは役に立てるのではないかと思った次第です。

もう少しです。ぜひ頑張りましょう。

今日も在宅勤務でした。
今日は飲み曜日なので、フレックスで4時に上がって、まだお日様が照っているうちにから飲んでいます。無常の幸せ(^^♪

さて、今週月曜(2020年5月11日)から新たなご当地ナンバーが交付始まりました。
北から、知床、苫小牧、弘前、白河、上越、板橋、葛飾、江東、市川、船橋、松戸、市原、伊勢志摩、四日市、飛鳥、出雲、高松です。

ご当地ナンバーてのは、風情があるものですし、その土地の民意が反映されたものです(一応)ので、喜ばしくはありますね。
でも僕は、基本的にご当地ナンバーは反対です。というか、日本の車のナンバーの制度には抜本的な改革が必要です。理由を下記のようにまとめます。

1.車のナンバーというものは、一見してその車がどこのものであるかを視認し理解しなくてはいけない。その意味からは、ナンバーは都道府県の名を冠したものであるべきである。
2.もしナンバーを県の単位より小さい単位で分けようとするならば、誰もが納得して公平性を感じてもらうような分け方などはあり得ない。
3.同じナンバーを再利用することを制度化しない限り、ナンバーはどんどん使い切り、ナンバーを細かい地域に分割せざるを得なくなる。
4.以上より、日本の車の名ナンバーは市の単位にならざるを得ない。事実そうなってきている。そしてそれは本来的な目標である1とは逆行する。

僕は、車のナンバーに関しては関心があり、これまで次のような記事を上げてきています。

2017-9-20「またまた、ご当地ナンバー再燃」
2016-6-11「車のナンバーを替えました」
2015-6-23「ご当地ナンバーを考える」
2013-8-17「またまたご当地ナンバーの奇妙」
2013-6-19「また車のナンバーの話を少し」
2013-6-16「嗚呼、袖ヶ浦ナンバー」
2012-3-12「車のナンバーあれこれ」

では、このあたりぶっちゃけ話を交えて書かせていただきます。
なお、若干ミーハー的な話を含みますが、車のナンバーはミーハー的な話抜きには論じられない点、ご了承ください。

まず、千葉県についてです。
千葉県は、かつての「千ナンバー」が2つに分かれた時、千葉市以南を「千葉」、その北側を「習志野」ナンバーとなりました。
みなさま、習志野ナンバーの習志野とは習志野市のことではない、とご存知でしたか?
千葉陸運局習志野陸運事務所は、船橋市習志野台にあります。自衛隊の近くですね。
本拠は船橋市なんです。

ならば船橋ナンバーでもよかったのでしょうけど、市川や松戸や柏から猛反対が起きると見たのでしょうね。
ごく最近ネットで知ったのですが、習志野というのは、昭和天皇が命名された、船橋から習志野市一帯の広域の地域名称だったとのことです。
なるほど、だから習志野ナンバーが採用されたのかもしれませんね。
でも、「北総ナンバー」とかでもよかったかもしれませんね。

習志野という地名は、天皇がお付けになってこともあって、確かに風情のある地名ですね。
ですので、市川、船橋、松戸、柏といった北総地域の車のユーザーにとって習志野ナンバーは、多少の違和感こそあっても、それほど嫌ではなかったに違いありません。
しかし、習志野ナンバーが次第に満杯になってしまったことを受け、旧習志野ナンバー地域内に野田ナンバー(野田市、松戸市、柏市、我孫子市、流山市)(ご当地ナンバーでない)ができたことが一石を投じました。
野田市の方には申し訳ないですけど、やはり柏市、松戸市の人にとって野田ナンバーは耐えがたいものでありますm(__)m
だから、ご当地ナンバーとして柏ナンバーができ、そして今週、松戸ナンバーができました。

千葉県を2つに分ける時、北部を北総、南部を房総などと分ければよかったものを、習志野、野田、成田、袖ケ浦という、ややマイナーな地名のナンバーを付けたものですから、ユーザーとしては納得せず、柏、市川、船橋、松戸、市原ということになったのでしょう。ある意味、当然です。そのうち、木更津、君津、館山、銚子が名乗りを挙げてくるでしょうね。

神奈川県の場合は、ご当地ナンバーではありませんが、湘南ナンバーの誕生の際に醜い自治体の主張がありました。
湘南というのは、本来、鎌倉から二宮あたりの沿岸地域のみを指すものですが、結局、「オレも入れてくれ」と、湘南とは言えない地域の市町村の数々の利己的な主張により、湘南ナンバーは随分広いものになってしまいました。

茨城県の場合は、従来、水戸ナンバーと土浦ナンバーの2つでした。
土浦というのは実はよい場所なのですけど、とにかく「土」という字がダサイんですね。
つくば市は、ダサい茨城の中でも唯一ブランドがある市です。研究、国際という意味で、特別な場所です。
ですので、つくばナンバーは人気があります。
湘南ナンバーほどではありませんが、茨城県の各市も、我も我もと、つくばナンバーを望みました。
すると、西は古河に至るまでの恐ろしいほどに広域の地域がつくばナンバーになってしまいました。
本家土浦ナンバーの残党はごくわずかの地域になってしまいました。

埼玉県は、映画「翔んで埼玉」でも描かれていたように、浦和と大宮はとっても仲が悪いです。
なのになぜ大宮ナンバーというのがあったのかというと、交通の要は大宮であることは浦和も認めていたからでしょうね。
埼玉の東部地域が春日部ナンバーというのは不自然でしたね。だから越谷ナンバーができたのでしょうど。
それにしても、越谷ナンバーなんて。
こんな一介の市の名前が車のナンバーになるなんて!
だって、越谷という地名を知らない日本人はごまんといるでしょ。

以上、書いてきたように、ある県を地域に分けて車のナンバーにしようとすると、必ず何らかの不合理さ、不公平感を生むのです。
だから、一番いいのは、車のナンバーは県の名前であることです。
これなら、不公平感もないし、視認性もいいし、「どこの車だ」ってすぐにわかるし。
関西の県は、1県1ナンバーを貫いている所が多いのは、理解できます。

今年2月亡くなった愛知の叔父は、名古屋陸運局に勤めていました。
僕が若い時に、名古屋方面に出張があると、よく飲みに連れて行ってくれました。
叔父は陸運の仕事に誇りを持っていましたし、また苦労も大きかったようでした。
特に、尾張小牧ナンバーが誕生する時のバトルを調整するのはすごく大変だったことを話してくれました。
僕は、叔父に対して「なぜ一度使ったナンバーを再利用しないのか?」という質問をぶつけたことがありました。
すると叔父は、「それは確かに論点だ」と、僕の質問を尊重してくれ、長々と説明してくれて、「やはり日本では車のナンバーというものは財産と捉えているので、再利用は難しいのだ」と結論付けました。
ああ、もっときちんと記憶しておけばよかった。
叔父の貴重な話の中味をほとんど忘れてしまいました。
このことは今でも謎です。なぜ、日本は車のナンバーを再利用しないのだ!?
分類番号として7を使ったり、アルファベットも使い始めたけど、焼石に水ですね。

そうです、日本の車は、ナンバーを再利用しないから、すぐに満杯になる。だから細かい地域名に分ける必要になってくる。いずれ市だって満杯になるでしょう。
その点、アメリカは、州の名前のプレートであり続けています。そして、ナンバーを再利用しています。
登録年を付したり色を替えたりもしています。

やはり、車のナンバーに関してはアメリカを見習うべきでしょうね。
1県1ナンバーで、再利用あり。
ぜひ陸運局に検討してほしいです。

2020-5-14(木) 20:00 以下補足します。

我が国では希望ナンバー制度というのがあり、人気であり、よく利用されています。
4桁の数字部分のみ、自由に選べるというものです。
4桁の数字なので、1から9999までの9999通りの中から1つを選べるわけです。
誕生日を選ぶ人が多いです。あるいは何かの記念日。
当然ながら、「何月何日」というのは365通りあります。
誕生日以外で人気の番号は、何かの語呂になっているもの、例えば1122(いい夫婦)、2525(ニコニコ)なんかですね。

そうなんです。希望ナンバーって、実際問題、ごくごく限られているんです。
9999通りがまんべんなく使われればいいですが、ごく特定のものに集中しちゃっているわけです。
ここが問題なんです。

1とか3とか7とかのごく限られたナンバーは抽選なのですが、誕生日とか1122とかの希望ナンバーは手数料さえ払えば全員もらえます。
すると、1122とかは恐ろしい勢いで埋まってしまうのです。
例えば、「530さ」で始まるとして、まず530の平仮名を使い果たし、次は「531さ」となり、これも使い果たし、結局599まで行って使い果たし。

この希望ナンバー制度が、ナンバーの満杯に拍車をかけているのです。
もし希望ナンバーがなければ、そうそうはすぐには一杯になりません。

599までいったら次は7百台を使うのです。
しかしこれも、1122などの人気ナンバーによって瞬く間に使い果たされるわけです。
で、苦肉の策が、分類番号にアルファベットを使うことです。
しかしこれも抜本策でなく、焼石に水でしかないのです。

要するに、希望ナンバーを野放図に与えまくっていてはいけないのです。
それと、同じナンバー(分類番号と平仮名含めての)が再利用できないことですね。

アメリカではナンバーは再利用できます。ただし、一定の期間を経てから使えるようです。
ある車のユーザーがナンバーを取得しようとする場合、その人は陸運事務所のサイトにアクセスすれば、自分の希望するナンバーが今使えるかどうか、一瞬に判別できます。
もうかなり前からアメリカではやられてますよ。

僕はアメリカかぶれというわけではありませんが、車のナンバーに関してはアメリカに倣うべきだと思いますね。
今回のコロナでは、アメリカよりも日本のほうがはるかに優秀だったわけで、日本人のほうが優れることは確実にあります。
車のナンバーについては日本は遅れていると言わざるを得ないでしょう。
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僕なりのユーチューバー紹介

みなさまこんばんは。
あたかもテレビドラマ「世にも奇妙な物語」のようなシーンが現実に繰り広げられています。
みなさま、どうか気をしっかり持って、この苦難を乗り越えましょう。

最近つくづく感じること。
それは、60超えた再雇用の人は、それらしく控えめにしていること。そうすればみんなはよくしてくれるでしょう。
「なんだおまえそんなこと今頃気付いたの?」と言われそうです(笑)
ですので、会社ではガチにやり過ぎるとストレスが溜まる一方ですので、理解者の人とはうまくやるにせよ、なるべく社外の活動を広げるのがいいのかな、と。
(以上、半分冗談です)

さて、これだけ在宅の人が多いとなると、ユーチューブを観ている人が多いでしょう。
ユーチューブに限らずですが、日本人は何かを観る時、「よいものかよくないものか」のような二者択一で、しかも情緒的に観る傾向があります。
もっと言うと、人の評価とか、あらゆる物事の見方において、そのような傾向があると思います。

例えば、このブログで何度か紹介しました、さゆふらっとまうんどさんこと平塚正幸さん。
社会活動家ユーチューバーとして支配者層設計の構図を示したり、冤罪や警察の体質に体を張っての問題提起、いろんな社会問題への斬り込みなどを行っています。
最近では、N国党の”アンチ枠”で参院選に出たり、N国党の内部を暴いたり、自ら国民主権党を作ったりしています。

このさゆさんに対する世の中の評価は、過激なことを言うカッコいい人、または、とんでもない人、という評に二分されてしまっています。
アンチがいっぱいいるのですが、アンチの人たちによる動画とか書き込みはほとんどの場合、さゆさんの言動の表面的なことしか見ていなく、そこを悪く言うことに終始してしまっています。
僕のさゆさんの見方は、物事の本質を考えられる力です。
1つの社会問題について、とても卓越した見方ができ、立体的な考えをできる人です。
ただし、「***という見方ができるので、+++という可能性がある」と言っておけばよいところ、「+++である」と断定してしまう場合が多く、僕はそこは厳しく見ています。

すなわち僕が言いたいのは、ユーチューバーから魅力的な部分を「抽出」すればよいのです。全体あるいは結論部分で評価しなくてはいけない、などということは全然ありません。

似たような意味では、橋下徹さんとかホリエモンとかは、自分の上司とか部下のようなガチな関係者であれば困ってしまいますが、その発言から何かを抽出するとなると、かなり得られるものが多いと思います。
ちょっと脱線ですが、ガチな間柄の人とうまくやるには、ユーチューバーからよいものを抽出するようには行きません。それはそれで、一大研究対象ですので、興味のある方はおっしゃってください。

さて、人間の種々な欲の中で、最も深遠な欲は、知的好奇心を満たそうという欲である、と僕は考えます。
そんな欲に応えてくれるユーチューバーを探し当てることは、砂漠の中を放浪した末にオアシスを見つけるが如くの喜びです。

そんなユーチューバーの一人が、『予備校のノリで学ぶ「大学の数学・物理」 』をやっておられるヨビノリたくみさんという方です。
まだお若い方なんですが、自らすごい勉強家ですし、知の喜びを知り尽くしていますし、それを世の中に伝えるための新しい述を開発した人です。
正攻法で知的なことをアピールするのは難しい中、予備校的な語り方で、多くの人に知的好奇心を身近なものにしたという、見事なマーケティングです。

主に数学や科学の話なので、苦手なテーマと思ってしまう方が多いかもしれませんが、まずはご覧ください。理解しやすいですし、引き込まれますよ。
では、たくみさんの数ある動画の中でもおもしろい内容の動画を3つほど紹介します。

相対性理論を中学生でもわかるように説明
https://www.youtube.com/watch?v=voFHToRM4xI&t=6734s

将棋の複雑さを数学の場合の数で説明
https://www.youtube.com/watch?v=7QcpShRfqGA

数学の超難問であるabc予想(日本人数学者がユニークな方法で解いた)とはどんなものかの説明
https://www.youtube.com/watch?v=PIUCfN08p8M&feature=emb_rel_end

中田敦彦さんの歴史などの講義もかなり知的好奇心を満たしてくれます。
ただし、内容的に間違っていることが比較的多いことから一時炎上してしまったのは、日本人のよくない癖です。(よいか悪いかだけの感情的判断)

最後に。
知的好奇心を得る暮らし方、会社でどう仕事を進めるべきか、メンタルヘルスなどでプレゼン可能です。
出張プレゼンも可能です。この状況が終息したら行きますよ。
ご用命あればおっしゃってください。

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今こそ物事を定量的に示すべきです(コロナ禍に鑑みて)

みなさまこんばんは。

訪問者数のカウンター表示がここ数日おかしくなりました。
1日当たりの訪問者数が、3日前には正しい数の1割程度しか表示されませんでした。
一昨日は8割程度、昨日は9割程度となり、回復されつつはあります。

この異常が他の方でも起きているのかどうか知りたくて、いろんな方のブログを拝見しました。
まずはとても驚いたこと。訪問者カウンターってほとんどの人が設置しているものとばかり思っていましたが、そんなこと全然ないどころか、設置していない人がほとんどではないですか!
これにはめちゃ驚きましたね。だって、これまでそんなこと考えてもみなかったので。
(かく言う私も英文ブログの方には設置していません(笑))
正確には数えていませんが、カウンターを設置している人は大体2割くらいのようです。
その少ない方のカウンターを見させていただいたところ、約半数の方に僕と同じ異常が見られました。
(カウンターの上にカーソルを置くと、過去1週間の訪問者数の推移を見られます)

この訪問者カウンターの表示数というのは、そもそもが正しくありません。
少なくとも僕の場合は、今回のような異常がなくても、正しい数の8掛け程度しか表示されないようなのです。
例えば、訪問者履歴には1日300名程度記録されているのに、カウンターには240名とか。
ただ、その「8掛け」のような係数は毎日一定のようです。だから、多い少ないの推移は反映されています。

ま、いずれにしても絶対数そのものにはさほど意味はないので、一つの目安として、大体どれほどの方がいらっしゃったというバロメーターとして捉えています。
それにしても、訪問者カウンターそのものが大多数のFC2ブロガーさんには関係ない事柄であったのを10年間全く気付かなかったわけで、「やれ累計10万人ご来訪多謝」とか言っても空回りしていたことになりますね。にもかかわらず声をかけていただいた方には本当に感謝です。

さてさて。大変なコロナ禍です。
みなさま本当にお疲れ様です。
新型のウイルスですし、危険な面、未知の面があるので、国民一致協力の上、不便を我慢し、難局を乗り越えるべきです。
しかし一方では、問題点も確実にあると思います。今のままでは国民は疲弊してしまうでしょう。
では、僕なりに今の問題点を挙げてみます。

①小池都知事をはじめとするリーダーの要請には、データに基づく定量的な説明がないこと。
②マスコミは嘘は言っていないにせよ、一部のことを、さもそれが全てである如く歪曲して報道していること。

今現在、大事なポイントは次のような事柄だと思います。
・今回の新型コロナウイルスの危険なところ、危険ではないところは何なのか。どんな特徴を持ったウイルスなのか。
・何が分かっていて、何が分かっていないのか。専門家はこれから何を突き止めていこうとしているのか。
・感染者のうち、具体的にどのような人が他者に感染させやすく、どのような人がさせにくいのか。具体的にどのような状況が感染させやすいのか。
・なぜ日本だけが感染者数が他国に比べ極端に少ないのか。
・現在の日本の感染者数では、自粛をすることによる健康的リスク回避のプラス面よりも人々の困窮のマイナス面の方がはるかに大きいという判断もできる中、なぜ自粛を行うのか。さらにはなぜロックダウンの可能性があると判断できるのか。
・現在の自粛が意味があるとして、では今後どのくらいの期間でどのようにウイルスを抑え込む(あるいは長引かせる)のがよいのか。そしてその作戦は上記のウイルスのどの特徴によるものなのか。誰のどのような行いに基づくものなのか。
・健康面の戦略と共に、人々の生活を守るため、何をどうすれば最も損害が少なくなるのか。

現状では、これらのことは十分に説明されておらず、しかも定量的には説明されていないと思います。

オーバーシュート、ロックダウン、クラスター、さんみつ・・・。言葉遊びだけでは困ります。
多くの人が、検査の陽性数の累計数が毎日増えていくことをもってでしか感染拡大と言っていないマスコミの報道に翻弄されています。

全てのことが危険回避のために同じように作用するのなら、今のような説明で誰もに自粛要請さえすれば事足りるでしょうけど、いろんな事柄が複雑に入り組んでいるわけですので、「**が**であるから、**の期間、**の状態にする。そのために、**の人には**を要請し、**の人には**を要請する。」のような説明をするべきです。
しかもそれを、データに基づき定量的に説明すべきです。
できる限り多くの人が納得できるように、重要なポイントについてのプラス面、マイナス面を定量的に説明し、ゴールとその道筋をできる限り明確にすべきです。
分からないことがあり、難しいことがあるからこそ、定量的に説明すべきなのです。

ではこの状況に対しどうすべきなのか。
実は、僕なりに上記したことの一つ一つに考えを述べようと思ってある程度まとめていました。
そんな中、今朝友人より、京大iPS細胞研究所の山中所長(教授)の立ち上げたHPが大変興味深いので見てみたらどうかとのお話をいただきました。
https://www.covid19-yamanaka.com/index.html
早速見てみたところ、これはもう、まずはこちらをブログで紹介すべきと思い、急遽書くことにしました。
山中先生はウイルス学の専門家ではありませんが、同じ医学関係の研究者として、役に立てないかということでHPを立ち上げたとのことです。
何より、研究者として一流ですので、医学的問題を多角的に、そして定量的に解析し、問題解決法を提言することにおいては、一流であろうことは十分に予想できます。
そして実際HPを拝見したところ、全く期待を裏切らない構成と内容になっています。

今回の新型コロナウイルスは、多くは無症状または軽症で済むものの、感染力が強く、感染者の約5%の人は救命装置がないと助からないこと(別の研究者も言っていました)という危険な部分と、そうでない部分を分かりやすくまとめられ、分かっていることと分かっていないことをしっかり分けて示しておられます。
多くは自らの知見というよりは他の研究者の引用であるでしょうけど、多くの論文等を読んで、客観的にまとめていると思います。
何より定量的です。

そして具体的な提言もされています。
例えば、感染力のないまたは弱い感染者を受け入れる状況を作るべきだなどの方策など。

とにかく、訳もわからぬ説明で国民に漫然たる自粛を求めても仕方ありませんね。
その意味では山中先生の取り組みはとても光ります。

僕は、山中先生が示しておられることの中には、違うのではないかと思うこと、あるいは賛成できないこともあります。
でもこうして、体系的であり定量的である考えを一流研究者の方が、ネットで示すのは大変よいことだと思います。

テレビも、もっといろんな論点を多角的にきちんと報道し、国民がしっかり考えるようにしないといけないと思います。

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言葉の移り変わりというもの

みなさまこんにちは。
昨日は夏日。今日は雪。
すごい変化ですね。
お元気でしょうか?

今日は言葉について語ります。
なお、今回の記事には既出の内容を含みますが、最近新しい読者様も多いことからご了承ください。

言葉というものは常に時代と共に少しずつ変わっていくものです。
古い世代の人たちは、こうした変化を苦々しく思うことが多いです。「若い奴らはなってない」とか言って。

「ら抜き言葉」が最初に出現してからもう久しいです。
最初はすごくおかしいと思っていましたが、もうすっかり定着しました。
もう15年くらい前でしょうか、国語学者の金田一春彦先生が、「こうした言葉の変化は時代の要請によることが多いので、必ずしも否定しない」と言っていました。
そのうち「ら抜き言葉」も正式な文法の一態様として認知されるのでしょうか。
僕はこの金田一さんの意見を聞いた時は到底受け入れがたかったのですが、その後だんだん言葉の変化に寛容になってきまして、一部は自らも使うようになってきています。ただし、一つ一つよく考えて自分なりに判断してから使うようにしています。
単に言葉の文化を劣化させるような安易な流行には乗らないようにしています。

呼応の副詞の使い方も時代と共に変わりやすいと思います。
例えば、「全然」。
正しくは、「全然****でない」という風に、否定を伴います。
でも今は、若い人を中心に「全然OKだよ」のように肯定でも使います。というか肯定の場合の方が多いくらいかもしれません。
僕が学生時代から既に使われ始めていましたので、もはや世間には受け入れられたように感じます。
実は今では、僕も「全然元気ですよ」のように使うことがあります。ただし相手を選んでですけど。

僕が中学の時(つまり50年前)、当時かなり年配の古文の先生が、ある授業の時、余談の中で次のようなことを言いました。
「君らねえ、『絶対に****だ』というように肯定で当たり前に使ってるけど、本当は『絶対に****ではない』と否定で使うのが正しいんだぞ」
当時の先生にとって、「絶対に」の使い方のおかしさが、僕の感じた「全然」のおかしさと似たようなものだったのでしょう。

昔であれば、「ありがとうございました」、「お疲れ様でした」と言ったのを、今では若い人を中心に、「ありがとうございます」、「お疲れ様です」と言います。
これも最初はかなり違和感がありましたが、僕はだんだん受け入れてきています。
例えば、仕事を終えて誰かが帰宅するのに「お先に失礼します」と言ったのに対し、「お疲れ様です」のように。
40代後半以降の頭の固い人たち(失礼)は、この時代の変化がわからず、「お疲れ様でした」と自分だけ言い続けています。
僕はいろいろ考えましたが、どうも「お疲れ様です」のほうがしっくりくるんですよ。少なくとも毎日のお決まりの挨拶においては。
何か具体的なことに対しての労いには「お疲れ様でした」と言うかもしれません。
「ありがとうございました」と「ありがとうございます」の差はもう少し複雑な気がします。
例えば、コメントの返事として「ありがとうございます」としか書かない若い人が多いのですが、僕は今でもコメントのお返事には「ありがとうございました」が多いですね。
「お疲れ様です」「ありがとうございます」という現在形は、定常的な慰労や感謝の気持ちを表す場合に使い、「ありがとうございました」は具体的な事柄に感謝を示す場合に使う、という僕なりの切り分けを考えています。
そうでないと、「ありがとうございます」という現在形だけにすると、漫然過ぎて微妙なニュアンスを出せなくなる気がするからです。
よって、「いつもご訪問ありがとうございます」「今回の記事に対してコメントありがとうございました」のように使っています。
まあこれとて柔軟に考えていきますけどね。

「こんにちわ」「こんばんわ」という書き方が一時流行りました。
一時は大の大人も書いていましたが、今はほとんど見かけなくなってきています。
多分、これらは言葉の劣化であると社会が考えたからでしょう。
「こんにちは」「こんばんは」のように、「は」である所以があるから、単に発音さえ合えばよいというものではないからでしょう。

最近、「違く・・」という言い方が一部の30代以下の人たちに流行り始めています。
例えば、「違わない」の代りに「違くない」、「違っていて」の代りに「違くて」のように言います。
これも最初はすごくおかしいというか、単に言葉を知らない人の話し方かと思っていたら、どうも広まりを見せているようなのです。
しかも不思議なのは、いい意味でインパクトを感じるのですよ。
考えてみたら、「よい(良い)」という言葉も、「よくない」「よくて」のように「く」を伴うことから、「違く」も定着してくるのでしょうか。

以上は、使う言葉の変化についてでした。
次は、同じ言葉でも解釈が時代と共に変わってきたと感じる言葉を2つ挙げてみます。

「確信犯」という言葉。
よくこんな使い方をしませんか。
ある職場での話。遅刻常習者のAという社員がいるとします。
Aはある日、友人と飲み会で深酒をしました。案の定(そういえばこれって今の若い人はほとんど言わないなあ)、Aは二日酔いになり、翌朝大遅刻しました。
一緒に飲み会に参加していたBが翌朝言うには、「Aは飲み会の途中から、『いいよいいよ明日遅刻するからさ』と言ってましたよ。全くAは確信犯ですよね」。
つまり確信犯というのは、自分が悪いことを十二分に承知の上、敢えて悪いことを犯すことを意味するのが、今の標準だと思います。

しかし、「確信犯」の意味するところは昔は違っていました。
例えば、国家とか軍部が国民を支配し縛っていることよりも、自分の考え方の方が上位にあるので、その考えに則って行動したことは必ず正しいのだ、のような意味だったと思います。
戦前とか戦後直後の活動家に多かったような気がします。
数十年前のカルト教団の教祖が、殺人をすることを自らの考えにより正当化しているのも似ているかもしれませんが、少しでも「本当はだめなんだけど」という考えがある場合は確信犯とは言わず、全く正しいと信じ切っている人を確信犯と呼んでいた気がします。

もう一つは「禅問答」という言葉。
元々は仏教的には悪い意味はなかったのでしょう。
文字通り禅的な問答。
それが転じて、高尚なやり取りではあるけど、要領を得なくて、不毛なやり取り、のような意味で、やや嘲笑を込めたコメントとして「あれは禅問答のようだ」という使い方が、何十年くらい前から出てきました。
しかし今では、ほぼ悪い意味でしか使わなくなったように思います。しかも、内容的に禅的かどうかは問わず、とにかく抽象的で不毛な議論のことなら何でも指すようになった気がします。

こうした解釈が変化してくるのは何によるものなのでしょう。
時代の要請ということもあるかもしれませんが、そもそも言葉というものは何世代も続いて同じ解釈が伝承されるのは難しいのかもしれませんね。
新しい世代の人が考えることがだんだん定着していくのでしょうね。
ただ、単に言葉の文化が劣化する一方の変化はよろしくないと思います。

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年賀状について

みなさまこんにちは。

実は前回の記事は炎上覚悟で書いた。
「いったい何を古臭いことを言っているんだ! ネットという自由空間ができたのだから、自由なコミュニケーションをどんどんやることこそがいいのだ!」という反論が多くあるだろう。
僕はこうした自由なコミュニケーションを否定しているのではない。
主客転倒してはいけないと思うのである。
ネットという自由空間、しかも情報量が無限大で、コミュニケーションの質と量の制約が何もない空間では、放置しておけば人々は感覚にのみよるコミュニケーションが主体になってしまう。
僕が前回書いたような”王道”のコミュニケーションは、ネット時代だからこそ主体にならなければいけないと考える。
その「主」が柱になった上で、いくらでも自由なコミュニケーションを楽しめばよいと思う。
そうした考えを強力に推し進めないといけないと考えており、少しでも人生経験の長い僕らがそれを牽引しないといけないと思う。

では本題。

僕はこれまでずっと”年賀状硬派”であった。
日本人独特の習慣としてとても大事なものと考えてきた。
なるべく誠実に、しかもできる限り元旦に届くように心掛けてきた。

しかし最近は我が国の年賀状の総数が減っている。
コミュニケーションの手段がこれだけ多様化しているのだから、仕方ないのかもしれない。
ある程度許容して理解を示す必要はあるだろう。

それにしても、今年はとても不可思議なことが起きた。
76通出したうち、11通が返信が来ないのである。
これまでの長い人生のうち、年賀状の返信が来なかったことなどほとんどなかった。(ただし、喪中の年の直後は除く)
数年に1回、1通の返事が来ないようなことかあるかないか程度だった。

「返信しないとは不義理な奴め」とかの文句を言いたいのではない。
不思議過ぎるのである。
昨年1年、不義理を働き過ぎてしまったのだろうか?
それとも、年賀状を書かない考え方が急速に拡大しているのだろうか?
はたまた、何らかのミスにより届かない?

今年はメールで返事をくれた方が数名いらした。
本音を言えばハガキのほうがいいのだが、人の考え方なので受け入れるしかない。

そして今年は由々しきことが起きた。
なんと、正しい住所を書いてくださったにもかかわらず、郵便局のミスで該当住所が見当たらない旨、その方に返送されてしまったのだ。しかも年明け何日も経ってからの返送。
その方は年内早々に投函いただいたにもかかわらず、こんなことになってしまった。

郵便局にお勤めの、ある知り合いの方のお話を思い出した。
最近は年賀状の数は減っているのだが、それ以上に局員の方の人数を減らされているので、年賀状の業務は多忙を極めている、とのこと。
あるいはまた、かつてたまにニュースで、年賀状配達のバイトが、面倒なので年賀状の束をドブに捨ててしまった、のようなこともあった。
もしかしたら、11通の中にはこのような配送過程でのミスによるものもあるのかもしれない。
想像だが、年内の各郵便局での年賀状の仕分けや配送はかなり大変なのかもしれない。以前より元旦に到着する率が減ってきていると感じるのは僕だけだろうか。

配送ミスはともかく、元日に必ず届くように出してくれる人、いつも元日よりも遅れがちな人、こちらが出してからでないと出してくれない人、など人により考え方が違う。
これは、必ずしもいい悪いではなく、その人の年賀状というものの捉え方である。

これまで僕は、年賀状を誰に出すかについては誠実路線で来た。
例えば、こちらから出さないとくれない人とか、いつも遅れがちな人に対しても、元旦に届くように出してきた。
でも来年からはこの考えを修正していく。
理由は2つ。

1つは、相手に年賀状を強要することをなるべく避けようと思うから。とくにこのような時世に鑑み。
もう1つは、もう歳なので、誠実路線で自分が勉強するよりも他者に影響を与えることにシフトしていくので。要するに、多少の不義理のリスクは負ってでも自分のやりたいこと言いたいことを実現する比重を増やすということ。

ところで、今年のお年玉くじは、切手が1つしか当たらなかった。
確率から言えば2つくらい当たってもよさそうなものだが。
1番違いがいくつもあった。
でもこんなもんだろう。

実は昔、僕は1等に当たったことがある。
また身近な人が1等に当たったこともある。

これを聞くとすごくびっくりされる方がおられると思うが、実はそんなに特別なことではないのだ。
そのあたりは、2010年11月17日の記事『Coffee Break Beatles No.60 「確率の話」』をぜひご覧いただきたい。
特に確率に関心ある方はぜひ!

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