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世の中ヤバいと言わざるを得ません

みなさまこんにちは。
今年も残すところ3日になってしまいました。
慌ただしいですねぇ。
お元気でしょうか?

僕の体のサイズは、LとLLの中間よりややLLの側です。
Lでも着られないことはありませんが、やや窮屈です。僕は肩幅が広く手もやや長めなので、Lだと手とか肩が締め付けられるような感じになってしまいます。
よって、着るもの穿くものを買う時はLLを探すのですが、LLの展示、在庫は少ないです。
特にバーゲンではLLは希少です。
先日、パジャマ兼部屋着を買うため、Sむらへ行ったのですが、MやLは山のようにあるのですが、LLは上下、1つずつしかなかったため、仕方なくそれを買いました。
LLを買うためにはデザインや柄を犠牲にせざるを得ない羽目に陥ります。
逆に、大きい物サイズ売り場では3Lとかばかりで。
最近の日本人の体格の向上から、LLの需要は多いはずなので、要はすぐに売れてしまうのでしょうね。まさかメーカーはLLをあまり作っていないということではないでしょうね。

1週間ほど前に都内で全社忘年会がありました。
全ての人が一同に会して忘年会を開く意義はあるでしょうけど、どんな人とどのように話をするかって、結構面倒ですし気を遣いますね。
そして実際に参加して、楽しかったし、いろんな人と有意義な話ができたのですが、その一方で、「この人は何でこんな立ち振る舞いをするんだろう?」とか「この人はなんでこんな甘えたこと(あるいは失礼なこと)を僕に言うのだろう?」とか「この人は何て計算高い(あるいは画策をする)のだろう?」と思うような場面も一杯ありました。
おしなべて言うと、その忘年会は、よかったこと=51、よくなかったこと=49のようなバランスでした。

かつての忘年会と言えば、皆、普通に礼儀を尽くし、正直に気持ちを表現し合い、相手を労い、自分にとって関わり合いのある人に自然に礼を言い会話を交わしたものでした。
よくないことも少しはあったけど、大半はよいことでした。
そして、そのよいことも予測可能だったのです。

こうしたことは忘年会に限らず、ふだんの職場でも大体こんな感じです。

職場の人々のこうした最近の「変化」とは、僕が歳を取ったから感じ方が変わったものによると思っていました。
ところが、「どうも違うのではないか」と思い始めたのです。

ユーチューブに目を転じてみましょう。
最近の話題の一つはN国党関係者の間のバトル。そしてそれを評論する人。そしてさらにそれを評論する人。
いろんな人の考え方のせめぎ合いが複雑にあるので、確かに興味深いと言えます。
N国党の存在自体が旧来の政治や社会を逸脱するので、そこに関わる人はユニーク過ぎて昔の常識では測られない人たちです。
さらにそういう人たちが、画策を凝らし、都合の悪い情報は隠し、自分に都合のよい情報を、知恵を絞って発信しています。
炎上したり提訴したり・・・と、それはそれは複雑怪奇です。
もちろん、頭のいい人たちが中心になっているので、斬新で有用な考え方も多いのですが、とにかく進むべく方向が明確でないのと、個人の考えがバラバラであり、しかも分かりにくいとあっては、まさに混迷を極めているわけです。

そんな中、二次評論者、三次評論者がごまんといるのです。
そうした評論者の中には鋭い人もいれば、単に井戸端会議程度のおしゃべりの人もいます。

重要な視点の一つは、これら一連の全ての人がwin-winの関係ではないということです。
全ての人が正直に溌溂として自分の意見を言っているのではないのです。
中にはそういう人もいますが、そういう人の考え方もバラバラです。
そして、せめぎ合い、けん制し合いで、相手を貶める人が結構多いのです。

まあ、こうした話題で多くのユーチューバーが広告収入を上げ、さらに新たな広まりを見せているのですから、一種の新しい業界と言えなくもないです。
そして、こうした話題の”火種”を与える人(N国党関係話題で言えば、TさんとかHさん、そして最近有名になった評論のH-Tさんとか)は、新たなビジネスを創出する人と言えるかもしれません。
ただですね、こうしたネットの”炎上ビジネス”は、かつての健全な日本の産業のような、新たな需要や雇用を産むような付加価値の連鎖ではないことと、進むべき方向が一定ではないことと、たとえ一定だったとしても人の解釈がバラバラなので、人々は意識や目的を共有できないと思います。
よって、関わる人たちは精神的な負担が大きいのです。

これはまさに現代の社会の縮図ではないでしょうか。
社会全体がこういう状況になってしまっているのだ、だから職場でもこうなのだな、と思うようになったのです。
分かり易く書くために、単純化しましたが、実はもっといろんな場面で同様なことを観察していまして、このような考えに至った次第です。

結局、みんなそうしないと生きていけないのだと思いました。
正直に素直に礼節を尽くし、感じよく振る舞っていては負けてしまう世の中なんだと思ったのです。
それが正しいとすると、すごく問題ではある一方、みんな苦しいのだからお互い様だから、急に同胞的に見えてきたのです。
これでまず少し気が楽になりました。

問題の根は深いけど、みんな一緒なんだねと言う安心感。
だからまず、皆、このことを共有して一緒に考えましょうよ、ということです。

今の社会の問題の解析と解決法。
今日はそれを論じません。
答えは難しい。大西つねきさんの主張するような根本解もあるけれど。
利益出すばかりの旧態依然たることやめて、人間らしい生活、子供を育てる人に普通にお金を出す世の中にしたいですね。   
しばらく黒字を食いつぶすでもいいではないか。

そして最後は歳のこと。
自分は若いつもりで皆と接してきて同等のような感じで言動してきたのだけど、実は、全ての煩悩を脱した淡い人間のようにどうしても思われてしまうのでしょう。
だから人は自分のわがままを平気でぶつけてくるのかもしれません。
こう考えると、いろんな人の失礼な言動はそれほど気にならなくなってきます。
そうした邪念を振り払い、本来自分のやりたいことに特化し、そして世の中を変えるんだ、さらには自分の後輩たちも救うんだ、と考えられるようになり始めた気がしたんです。

最近、なぜこんなに苦しいのだろう? と思ってきたことに対し、社会のことに関し、そして自分自身のことに関し、少しは何かよい方向に向かう感触が得られましたので、書いてみました。

ではみなさま、よいお年を!
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右と左の謎(チコちゃんの番組から)

みなさまこんにちは。
社会とメンタルに関するとても大事な記事を書いていたのですが、先ほどNHKのチコちゃんの番組で、超メチャメチャおもしろい問題を取り上げていたので、予定を変え急遽記事にします。

右と左の謎については、前々回の記事をはじめ、当ブログでたびたび扱っている一生のテーマです。

ではまず、先ほどの番組の内容を簡単に紹介します。
「鏡に映ったものが左右逆に見えるのはなぜか(例えば、自分が右手を挙げた場合、鏡に映った自分は左手を挙げているように見えるなど)」という問題をチコちゃんが出しました。
答え=まだよく分かっていない。
よく分からないことが分かった人は頭がいいと言っていました。
この問題はソクラテス以来、2000年も難問であり続けているそうです。
僕のブログで取り上げている問題と関連もありそうで、とても興奮しました。

番組では大学の先生(お名前を忘れてしまいました)が出てきて、解説をしていました。
左右というものは、上下の方向と前後の方向が決まって初めて決まるものだ、と。
例えば、立って南を向き、東の方向が左である。
鏡に映った自分というのは前後が逆になっているから、左右が逆に映って見える、と先生は説きます。

人間だから上下と前後が決まるのです。
実物の自分と鏡に映った自分では前後の向きが逆になっているので、左右反転したように見える、と。
これがもし茶碗や鉛筆(削ったもの)のようなものなら前後が決まらないので、鏡に映ったものは左右反転したようには見えない、と。

ところが、いろんな人にアンケートを取ってみると、約3、4割の人は右手を挙げている自分が鏡に映っている姿は、右手を挙げているように見えるそうです。
その理由として、脳内での変換が人により違うのようなことを言っていました。
例えば、車のバックミラーに映る後ろの車が右ウィンカーを出して右車線へ進路変更していった場合、ミラーに映るウィンカーは左ではなく右に見えるように、人の状況により左右の捉え方は違うのだろう、とのこと。

まさにこのあたり、右と左は相対的なものでしかない、あるいはまた主観的なものでしかないかもしれない、と当ブログで書いたことと似ています。

以上が番組で言っていたことです。
そしてここから先は僕が考えたことです。

鏡に映っている自分は左右反転しているように見えるのは、多分に、人間というものが左右対称にできているからではないでしょうか。
鏡に映る自分が、もし内臓まで透けて映ったとしたら、鏡の中の人間は心臓が右にある人物です。ここまで掘り下げると、人間は左右対称ではなくなります。
自分が右手を挙げたとして、鏡の中の人物は心臓のない方の手を挙げているので、それは左手と認識できない場合が出てくるように思います。
あるいはもっと極端な場合、人間がもし右の肩にすごく目立つ角(つの)のようなものがあったとして、その角をもって右手だと認識するような脳の回路が一般的だった場合は、鏡に映る人間が挙げている手は、角のあるなしにより判断することになるでしょう。

そしてさらに掘り下げて、以下のように考えてみました。

鏡に映る自分は左右反転した自分?
そうじゃなくて、上下反転した自分でもいいんじゃないのか?
だって、鏡には上下と左右を識別する能力なんてないでしょ。

人間が勝手に上下を決めているのであるから、左右が反転しているように見えるけど、もし左右というものが絶対的に決まっているのなら、鏡に映ったものは上下が反転するように見えるはずではないでしょうか?

多分ですね、人間の構造というものが左右のみ対称であり、上下には対称ではないことが、上下というものを絶対視してしまっている根本原因だと考えます。
ここで言う「下」とは重力が向く方向ということになります。

実際にはあり得ないことですが、次のようなことを想像してください。
もし人間という生き物は、足を常に東の方向に向けて、横向きに浮遊した状態で暮らすとします。
地面の方向の手を下の手、空の方向の手を上の手と呼びたいのですが、それは人間がどっちを向くかにより定義が異なりますね。
そこで、北を向いた場合に地面の方向を下の手、空の方向を上の手、などと定義できます。

このような人間が、自分の姿を鏡に映した場合、もし上の手を挙げたなら、鏡の中の人間は下の手を挙げているように見えることでしょう。
ところが、今現在の常識から見てしまうと、寝ている状態であろうとも、右手を挙げたのが左手で挙げているようにしか見えません。

このように、鏡に映っているものがどう見えるのかというのは、絶対的なものではなく、脳内でどのように処理して認識するかの領域であることが分かってきます。

科学的には鏡面対称とは何であるかははっきり分かっています。
しかしながら、鏡に映ったものがどう見えるか、そしてさらには右と左とはそもそも何なのかは、哲学的、社会的なことも含めて奥が深いと言えます。

しんどいことも多い今日この頃ですが、土曜の朝によい番組を観てとてもよい気分になりました。
何かと話題の多いNHKだけど、今日においてはありがとう!

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嗚呼、曲者の言葉「やはり」

みなさまこんにちは。
12月も無常な勢いで過ぎていきますね。
お元気でしょうか?

今週もどうにかこうにか終わりました。
どうも最近思うのですが、自分が頑張ることも大事ですが、他人を安心させることもかなり大事のようですね。
他人を安心させることにより不必要な競争(あるいは意地の張り合い)を減らすことができるように思い始めています。
こんな低成長の時代だからこそ。

では本題。

僕は、日本語でも英語でも、言葉というものに大きな関心を持っている。
このブログでも随分いろんな角度から書いた。

日本語でも英語でも、人々の間で、その解釈において齟齬を生む可能性のあるのが、物事の可能性を表わす言葉である。
例えば、「多分」、「おそらく」、「可能性がある」、「恐れがある」、「きっと」、「かなり」、「かもしれない」....などが挙げられる。
英語でも、probably、certainly,、definitely、absolutely、rarely、perhaps、maybe、possibly、might beなど、軽く挙げただけでもたくさんある。

これらの言葉はそれぞれ、一体どの程度の可能性を意味するのだろうか?
そもそも日本の国語教育ではこのことをちゃんと扱っていないだろうし、多くの人の間の認識にも差があるだろう。
しかも言葉の意味は、個々の事情や、その言葉の前後関係で少し変わるだろうし、時代と共に意味そのものが、変わっていくこともあるだろう。

最近の天気予報では、ある台風がその場所に上陸することがほぼ確実(90%くらいの確率のように思える)の場合に、「台風**号はXX地方に上陸する恐れがあります」と言う。
本来、「恐れがある」とは、ある困った現象が確率は低いけど起こり得る(確率でいうと20%程度以下か)のような意味だったはずである。
最近の多くのアナウンサーがやたらに「・・・させていただきます」や「お」や「ご」の過多用のような、マスコミで遠回し表現を好む傾向と、予報が外れた場合の責任逃れからくる産物が「恐れがある」の多用につながっているのかもしれない。

どうでもよいことならどんな言葉を使おうがあまり関係ないが、重要なこと、しかも人命に関わるようなことは、言葉を発する人と受ける人の間に齟齬が起きにくい言葉を使うべきだろう。

そして、物事が実際に起きた(あるいは起きない)後に交わされる”曲(くせ)者”の言葉がある。
「やはり」という言葉だ。

例えば、ある気象予報士が次のように予報を言ったとする。
「関東南岸沖を通過する低気圧により、明日、東京地方は雪が降る恐れがあります。ただし、低気圧が南岸にかなり近い所を通過した場合は雨になるでしょう。」

そして、結果として雪が降った場合、その予報士は「『やはり』雪が降りました」と言うであろう。
そして、結果として雨が降った場合、その予報士は「『やはり』低気圧が南岸にかなり近い所を通ったので雨が降りました」と言うであろう。
気象学的にその低気圧が南岸にかなり近い所を通る確率が、本当に低かった場合も高かった場合も、上の2通りの言い方があり得るだろう。
よって、都合4通りの場合がある。

普通に考えれば、「やはり」は、起こる確率が高かったことが実際に起こった場合に使うのが標準だろう。
しかし、その確率が十分に客観的でなく、主観的にしか判断できない場合、実際に起こったことが「やはり」と感じるかどうかは、発した人間と受けた人間では齟齬が生まれる可能性がある。
さらには、確率が低いことを事前に承知していたにもかかわらず、それが実際に起こった場合、「やはり」を敢えて使う場合がある。発した人間からすれば責任逃れであり、受けた人間からすれば責任追及である。

このように、「やはり」は、「確率の評価」と「責任の所在」という2つのパラメータにおいて、それぞれ正反対をも含む意味の広がりがあり、さらにこれらが掛け算になるので、すごくややこしい事態を招くのである。
かくの如く曲者の言葉よ、「やはり」。

何かの企画に参加する(しない)ことを幹事に対し意思表示し、結果として参加しなかった(した)という時も、この「やはり」がよく登場する。
これから忘年会シーズン。
参加、不参加の意思表示に条件付きがある場合は、その条件の確率をなるべく客観的、定量的に示すことが幹事思いである。
そもそも、条件付きがある場合はたいてい怪しいとみてよい。
あまりやりたくないが、前金制やキャンセル料が手堅い手段だ。

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Coffee Break Beatles No.197 「左手で奏でる音楽とは?」

みなさまこんにちは。
師走に入り早くも1週間が過ぎました。
今日はとても寒いですね。お元気でしょうか?
今日の記事は、お気に入りのコーヒーでもすすりながら気楽にお読みください。

先日、ブロ友さんと、ある絵画を左右反転させた画像は、オリジナルと比して似て非なるもの、というようなお話をして、右と左のことをまた考えてみたくなりました。
右と左の問題。それは未だに未解明のことが多く、下手をすると我々の主観の中に存在する概念でしかない、とすら思ったりします。
詳しくは下記の過去記事をぜひクリックしてください。

2017年11月2日『再び、右と左とは? いよいよ法律学の出番か?』
2014年5月6日『「右と左」の件、私なりの考えを披露します』
2014年5月3日『「右、左」を宇宙人に説明できますか?』

身近な問題としては、いつも鏡で見ている自分の顔と写真に写った自分の顔は驚くほど違います。
こうしたことを考えたりするのもおもしろいですよ。
実はですね、英文ブログのプロフィールの僕の子供の時の写真は左右反転させたものなんです(^^)/

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さて、自分のこれまでの人生の中で最も影響を受けた人は誰か?と問われたなら、僕はポール・マッカートニーを挙げます。
親兄弟、恩師、友人といった身近な人は除いての話です。
本当は、ジョン・レノンとポール・マッカートニーなのですが、ポールの方が存命期間がかなり長いので、結果的に影響が大きくなったのだと思います。
逆に言えば、もしジョンがずっと生きていたなら、どんな我が人生が繰り広げられたかは永遠の疑問です。

ポールファンならずとも、ポールが左利きなことをご存知の方は多いでしょう。
ポールは、ベースやギターの弦を張り替えて、あるいは特注のものを買って、右利きの人とは左右対称の恰好で奏でます。
結局左右反転しているだけなんだから右利きの人と一緒でしょ。と見るのか、いやいや何かが違うはずだぞ、あるいは全然違うはずだぞ、と見るのか。
人間の左右の脳の機能が違うことや内臓の配置が左右対称でないことを考えると、少なくとも全く同じではないことは確かでしょう。

ポールがピアノなどのキーボードを奏でる場合。
キーボードは左利き用に組み替えることはできません。
よって左右対称ではなくて、左利きの人が右利き用ギターを弾くようなものですね。
当然、サウンドへの貢献は大きいはずです。

今日は科学記事ではないので、雰囲気だけ書きました。
ポールの左利きとしての音楽的特徴は、これまである程度踏み込んで書いたことがありますので、よろしければ過去記事を見てください。

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以下余談です。

ビートルズのドライヴ・マイ・カーという曲があります。
多くのビートルズの曲がそうであるように、この曲もジョンとポールの共作です。
この曲は、アイドル路線をそろそろ卒業しようという時期に作られた名作の一つです。

せっかくよい曲なのに、中学生以来ずっと聴き続けて、正直どうもパッとしない印象がありました。
なんか、室内音楽風に軽いポップな感じで仕上がっています。プロデュースが失敗したような感想も持っていました。



ところがです。
ポールが60代半ばも超え、ビートルズ時代の曲をオリジナルに忠実に、かつさらに改良した形でライブで演るようになってから、この曲の印象がガラっと変わりました。
例えば次の動画を観てください。



2009年、ニューヨークのシェアスタジアムで行われたコンサートで、ドライヴ・マイ・カーをオープニングで演ったのです。
僕は最初にそれを聴いた時、ぶっ飛びました。
まずは冒頭のくすぐるようなベース。
そして全般を支配するうなるようなベースとグルーヴ感。
これはオリジナルの室内音楽には全くないものでした。
ああ、ポールは本当はこの感じを表現したかったのだな、と思いました。

僕は2014年に友人からこのコンサートのCDを借りたのでした。
正直最初はあまり期待していなかったのですが、この冒頭のドライヴ・マイ・カーのわずか2、3秒でいきなりノックアウトされてしまいました。

最後はマニアックなことですが、以前行った東京ドームのコンサートでアリーナの、しかもかなり前の方で観た時、ポールの顔の皺の1本1本とか、手の皺や筋肉まで克明に見えたことがありました。
驚いたことの一つは、ベースを奏でる左手(ポールは左利きなので弦をピックするほうの手)の手の甲の筋肉にすごく力を入れているのが見て取れました。
手の甲と指の第2関節あたりまでの部分をきれいな四角形にガッチリ固定するような感じの力の入れ方なんです。
ああ、これがポールの安定したベースの秘密なんだなと思いました。
上に貼ったyoutubeでもそのことが少しわかりますよ。

テーマ : The Beatles(ビートルズ)
ジャンル : 音楽

プロフィール

ST Rocker

Author:ST Rocker
ビートルズ解析ブログへようこそ!
つくば-千葉-さいたま の三角形を行き来していますす。
モットー:理系なのに熱く音楽、政治・経済を語る。
酒と冒険と音楽をこの上なく愛し波乱万丈の人生を送るB型です。
コメントは本筋に沿ったものをお願いします。

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