文系の学問とは、一言で言うと、そもそも何を目的としているのだろう?
みなさまこんばんは。
梅雨の中休みで、よい天気でしたね。
お元気でしょうか?
あなたは文系ですか?
梅雨の中休みで、よい天気でしたね。
お元気でしょうか?
あなたは文系ですか?
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以前の記事で、「文科系、理科系」というのは完全に死語になってしまって、本来略語であるはずの「文系、理系」が正式用語になってしまったことを書いた。
僕は死語には敏感なつもりだったが、文系・理系についてはある人から言われるまでは全く気付かなかった。
その人から言われただけでは到底信じられず、いろんなメディアを確認したり、多くの人に聞いて、ようやくそれが真実だと理解したのだ。
僕よりも年配の方々はこの変化に全く気付かれていない方が多い。
「文科系、理科系」という言い方は、概ね40台前半以下の世代には全く通じないのである。
「高等学校」と「高校」の関係に似ているが、「高等学校」は今でも正式用語だし、甲子園でも使われるので、知らない人はそれほど多くないだろう。
でも、「文科系、理科系」は、ある時を境に完全に闇に葬られたので、全くの死語となった。
ま、そのことはさておいて。
僕は15歳から58歳の今の瞬間まで、人生の主体を理系の海の中で過ごしてきた。
よくいろんなブロガーさんに「STさんのような理系の考え方をする人ってすごく珍しい」と言われる。
でも僕にとっては理系の人に囲まれて、理系の考えを巡らすのがデフォルトになっている。
だから、僕にとっては文系の方が多数であるブロガーさん方と交流することの方が非主流なのである。
僕の人生の中で、4年間、比較的多くの文系の人たちに囲まれた時期があった。
大学での専門は理系だったので、やはり主流は理系生活だったが、文系中心のサークルに入った。しかもそこで取りまとめ的な役割をした。
文系の学生から多くの勉強をしたが、今思うと、消化不良の部分が大きかったと思う。
また、30歳を過ぎて、地域の人に交わり、ランニングや山の仲間と交わり、音楽仲間と交わったりしてきた。
しかし仕事は理系であり続けたし、私生活でも理系的な立ち振る舞いが多かったように思う。
また、47歳から数年間は営業をやったこともあった。
しかし、技術ベースの営業だった。
要するに、これまでの人生において、身も心も文系の海にどっぷり浸って文系の発想になりきったことがない。
そして、ブログというものに相対する時。それは、文系の海に首をつっこむ時間でもある。
そもそも、文系の人というのは、いつも何をどのように考えているのだろう?
何をどうしたいのだろう?
というような純粋な疑問がいつも湧く。
そこでまずは、文系の学問、理系の学問とは、一言で言うと、そもそも何を目的としているのだろう?
というようなことから考え始めるのがよいだろう。
ではまず理系から。
理系の学問とは、自然界の物事の仕組みを解明し、それを理論的にかつ定量的に体系立て、それを人々の暮らしに役立てること。
だいたいこんなところか。
学問の種類によっては「自然界の」ということろとか「役立てること」というのがあったりなかったりする差は出てくるだろう。
もっと別の言い方をすると、理系の考え方には点の情報は点の情報でしかないのだ。
もちろん点の情報も重要だ。でもその点一つだけなら、単なる「例」に過ぎない。
点が集まり線となり、それが面となり、さらにそれが立体になって、ある体系が完成したなら、その体系を捉えるのである。
また、「こうなればああなる」のような定性的な情報よりも量と確率を込みで評価するところの定量手法が理解のベースになる。
だから、交流とか、以心伝心とか、愛情とか、腹芸とか、説得とか、共感とかの多くの人が重要視している事柄というのは、それ自体は理系の学問の扱うところではない。
しかし文系の学問ではこうしたことを取り込んではいないか?
それとも文系の学問はそうしたことを切り離した別の純粋な目的があるのか?
なので、「文系の学問学問とは、一言で言うと、そもそも何を目的としているのだろう?」という疑問に落ち着く。
そしてさらなる興味は、従来文系の学問の対象とされてきた事柄は、実は理系の視点で行うと新しい世界が切り拓けないか? そこが僕のブログでこれまで訴え続けてきたことに他ならない。
以前の記事で、「文科系、理科系」というのは完全に死語になってしまって、本来略語であるはずの「文系、理系」が正式用語になってしまったことを書いた。
僕は死語には敏感なつもりだったが、文系・理系についてはある人から言われるまでは全く気付かなかった。
その人から言われただけでは到底信じられず、いろんなメディアを確認したり、多くの人に聞いて、ようやくそれが真実だと理解したのだ。
僕よりも年配の方々はこの変化に全く気付かれていない方が多い。
「文科系、理科系」という言い方は、概ね40台前半以下の世代には全く通じないのである。
「高等学校」と「高校」の関係に似ているが、「高等学校」は今でも正式用語だし、甲子園でも使われるので、知らない人はそれほど多くないだろう。
でも、「文科系、理科系」は、ある時を境に完全に闇に葬られたので、全くの死語となった。
ま、そのことはさておいて。
僕は15歳から58歳の今の瞬間まで、人生の主体を理系の海の中で過ごしてきた。
よくいろんなブロガーさんに「STさんのような理系の考え方をする人ってすごく珍しい」と言われる。
でも僕にとっては理系の人に囲まれて、理系の考えを巡らすのがデフォルトになっている。
だから、僕にとっては文系の方が多数であるブロガーさん方と交流することの方が非主流なのである。
僕の人生の中で、4年間、比較的多くの文系の人たちに囲まれた時期があった。
大学での専門は理系だったので、やはり主流は理系生活だったが、文系中心のサークルに入った。しかもそこで取りまとめ的な役割をした。
文系の学生から多くの勉強をしたが、今思うと、消化不良の部分が大きかったと思う。
また、30歳を過ぎて、地域の人に交わり、ランニングや山の仲間と交わり、音楽仲間と交わったりしてきた。
しかし仕事は理系であり続けたし、私生活でも理系的な立ち振る舞いが多かったように思う。
また、47歳から数年間は営業をやったこともあった。
しかし、技術ベースの営業だった。
要するに、これまでの人生において、身も心も文系の海にどっぷり浸って文系の発想になりきったことがない。
そして、ブログというものに相対する時。それは、文系の海に首をつっこむ時間でもある。
そもそも、文系の人というのは、いつも何をどのように考えているのだろう?
何をどうしたいのだろう?
というような純粋な疑問がいつも湧く。
そこでまずは、文系の学問、理系の学問とは、一言で言うと、そもそも何を目的としているのだろう?
というようなことから考え始めるのがよいだろう。
ではまず理系から。
理系の学問とは、自然界の物事の仕組みを解明し、それを理論的にかつ定量的に体系立て、それを人々の暮らしに役立てること。
だいたいこんなところか。
学問の種類によっては「自然界の」ということろとか「役立てること」というのがあったりなかったりする差は出てくるだろう。
もっと別の言い方をすると、理系の考え方には点の情報は点の情報でしかないのだ。
もちろん点の情報も重要だ。でもその点一つだけなら、単なる「例」に過ぎない。
点が集まり線となり、それが面となり、さらにそれが立体になって、ある体系が完成したなら、その体系を捉えるのである。
また、「こうなればああなる」のような定性的な情報よりも量と確率を込みで評価するところの定量手法が理解のベースになる。
だから、交流とか、以心伝心とか、愛情とか、腹芸とか、説得とか、共感とかの多くの人が重要視している事柄というのは、それ自体は理系の学問の扱うところではない。
しかし文系の学問ではこうしたことを取り込んではいないか?
それとも文系の学問はそうしたことを切り離した別の純粋な目的があるのか?
なので、「文系の学問学問とは、一言で言うと、そもそも何を目的としているのだろう?」という疑問に落ち着く。
そしてさらなる興味は、従来文系の学問の対象とされてきた事柄は、実は理系の視点で行うと新しい世界が切り拓けないか? そこが僕のブログでこれまで訴え続けてきたことに他ならない。
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