父について
みなさまこんばんは。
サッカー勝ちましたね。
でも、まだまだ苦しい状況は続きます。
頑張れ!
今日の要約
・これまで、頑固で厳しいだけの父が、最近、愛情を感じてきた。
・だから、生まれて初めて、父への愛情を綴ってみた。
サッカー勝ちましたね。
でも、まだまだ苦しい状況は続きます。
頑張れ!
今日の要約
・これまで、頑固で厳しいだけの父が、最近、愛情を感じてきた。
・だから、生まれて初めて、父への愛情を綴ってみた。
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父は大正9年生まれ。96歳。
母は16年前に亡くなった。
父は絵に描いたような超頑固者で、すごい厳しい人間だった。
僕に対しても減点思考であり、いつも批判的な評価ばかりだった。
だから、僕が35歳以降は、基本的にうまくいかず、大きなケンカを時々行ってきた。
僕の仕事ぶりとかは、評価はしてくれるものの、男としてはダメ人間というレッテルを貼られっぱなしで、もう喧々諤々だったのである。
しかし、父も90を過ぎたこ頃から、次第に丸くなり、最近数年は、僕の姉に全面的に介護される状態になり、この頃は僕に対し「ありがとう」しか言わなくなってきた。
そうなると、僕として、父に対する愛情が徐々に芽生えてきたのである。
普通の人であれば、幼少期に芽生えるであろう父親への愛情。
それが55を過ぎてようやく訪れたのである。
だから、生まれて初めて父への愛情を綴ることにする。
自分の気持ちの整理も含めて。
父は、普通の青年と同様に軍隊に入隊した。
開戦してからは、すぐには参戦せず、北朝鮮の会寧の駐留部隊に属していた。
毎日のように20km行軍があったそうだ。
この話を聞いて僕は、父に負けまいと、2010年に田子の浦から富士山頂まで歩いたのだ。
末期にフィリピン戦線に参加した。鉄砲の玉が耳から数十cm以内を通ったそうだ。
フィリピンに上陸する際、敵に気付かれないよう、真夜中に上陸する。
しかも、船をあまり岸に近づけずに、上陸する。
すると、何人かは、その途中で海に落ちて死んでしまうのだそうだ。でも、そうした人に構っている時間も手間もないので、放っておくのだそうだ。なんて気の毒な。
やがて、父は米軍の捕虜になった。
シベリア抑留とは大違いであり、実におおらかで恵まれた捕虜だったようだ。
戦地なのにステーキを食い、コーラを欠かさなかった米軍。
父もよくコーラをもらったそうだ。
戦争が終わり、復員後、父はある機械メーカーに入った。
父は機械工学の出身である。
その会社でセールスエンジニアとして、それはそれはモーレツに働いた。
とにかく仕事第一人間であり、また仕事大好き人間であり、家族にも、周囲にも、その「仕事人間」を圧倒していた。
そして我が国は高度成長期へ。
父の働きぶりは頂点に達した。
家や子供(僕と姉)のことは母にほぼ任せっきりになった。
僕が子供頃は母の料理の助っ人であったことは前回書いた通りである。
でも、そんな中、父は日曜に僕を近所で遊ばせてくれたことははっきり覚えている。
近くの学校の校庭とか、小山とか、小川とか。
そういうところで、野球のノックをやったり、ザリガニを捕まえたり、
日が暮れそうになると、父がよく微笑みながら歌っていた。「帰ろかな、帰るのよそうかな。」
あの時は、あの歌は父のアドリブで作ったのかと思っていた。
また、家族で関東一円の景勝地には結構連れて行ってもらった。
行き帰りの電車は僕は大好きだった。
だから、僕の小さい時の夢は電車の運転士になることだった。
父は大方は気難しくて厳しかったので、当時はありがたい面がほとんど見えていなかったのだが、今こうして考えると、父がやってくれたことは、ありがたいことがすごく一杯あるのである。
こうして考えると、家族を顧みない仕事人間とは言えなかったかもしれない。
また、父は僕に電気や機械の作業を徹底して教えた。
コンセントの配線とか、家電の簡単な修理とか、機械の組み立てとか。
すごく厳しく習った。
父のいた会社の業界は機械とは言っても、やや特殊な業界である。
父は、自分の技術には自信を持っているが、接待で勝負が決まる面も大きかったようだ。
そこで父は、セールスエンジニアとして頑張る一方、接待にもかなり力を注いでいたようだ。
主な出張地は、京都、秋田、新潟など。
当時は寝台車を駆使して主張していた。
お土産は五色豆、柴漬け、八つ橋、笹団子など。
そして、時間がなかった時は与野駅で五家宝。
子供ながらに旨かったなあ。(マセた子供)
こうして、超仕事人間の父であり、家や子供のことは母や祖母に任せていた父。
食べ物も、「ご飯粒は1粒も残すな!」「大豆は畑の肉だ!」と声高に言い、質実剛健を訴えていた父。
父はお洒落であり、高価なリーガルの靴をすごく大切に履き、長持ちさせていた。
あの当時、僕の父親像は、超まじめで仕事人間で、厳しい人間。
でも、でも、実態はそればかりでなかった!
というのは、僕が40歳も過ぎた頃、父は徐々に昔話を僕に話すようになってきた。
すると、かなり意外なことが。
父は、接待ではご馳走をいっぱい食べていたのだ。
そして、父は接待と称し、結構ハデなことをやっていたのだ。
家族には質素で栄養のある食物を奨励し、でも自分結構旨い物を食べていた。
でも、そんな父は僕は許せるのである。
考えてみたら、僕は父から受け継いだものや、影響を受けたものがいっぱいある。
やはり親の子だ。
親父よ、育ててくれてありがとう。
そしていろいろ影響を与えてくれてありがとう。
そして、親父の仕事、本当にお疲れさま。
これからはオレが親父の精神、引き継ぐね。
ぜひ長生きしてください。
ありがとう。
父は大正9年生まれ。96歳。
母は16年前に亡くなった。
父は絵に描いたような超頑固者で、すごい厳しい人間だった。
僕に対しても減点思考であり、いつも批判的な評価ばかりだった。
だから、僕が35歳以降は、基本的にうまくいかず、大きなケンカを時々行ってきた。
僕の仕事ぶりとかは、評価はしてくれるものの、男としてはダメ人間というレッテルを貼られっぱなしで、もう喧々諤々だったのである。
しかし、父も90を過ぎたこ頃から、次第に丸くなり、最近数年は、僕の姉に全面的に介護される状態になり、この頃は僕に対し「ありがとう」しか言わなくなってきた。
そうなると、僕として、父に対する愛情が徐々に芽生えてきたのである。
普通の人であれば、幼少期に芽生えるであろう父親への愛情。
それが55を過ぎてようやく訪れたのである。
だから、生まれて初めて父への愛情を綴ることにする。
自分の気持ちの整理も含めて。
父は、普通の青年と同様に軍隊に入隊した。
開戦してからは、すぐには参戦せず、北朝鮮の会寧の駐留部隊に属していた。
毎日のように20km行軍があったそうだ。
この話を聞いて僕は、父に負けまいと、2010年に田子の浦から富士山頂まで歩いたのだ。
末期にフィリピン戦線に参加した。鉄砲の玉が耳から数十cm以内を通ったそうだ。
フィリピンに上陸する際、敵に気付かれないよう、真夜中に上陸する。
しかも、船をあまり岸に近づけずに、上陸する。
すると、何人かは、その途中で海に落ちて死んでしまうのだそうだ。でも、そうした人に構っている時間も手間もないので、放っておくのだそうだ。なんて気の毒な。
やがて、父は米軍の捕虜になった。
シベリア抑留とは大違いであり、実におおらかで恵まれた捕虜だったようだ。
戦地なのにステーキを食い、コーラを欠かさなかった米軍。
父もよくコーラをもらったそうだ。
戦争が終わり、復員後、父はある機械メーカーに入った。
父は機械工学の出身である。
その会社でセールスエンジニアとして、それはそれはモーレツに働いた。
とにかく仕事第一人間であり、また仕事大好き人間であり、家族にも、周囲にも、その「仕事人間」を圧倒していた。
そして我が国は高度成長期へ。
父の働きぶりは頂点に達した。
家や子供(僕と姉)のことは母にほぼ任せっきりになった。
僕が子供頃は母の料理の助っ人であったことは前回書いた通りである。
でも、そんな中、父は日曜に僕を近所で遊ばせてくれたことははっきり覚えている。
近くの学校の校庭とか、小山とか、小川とか。
そういうところで、野球のノックをやったり、ザリガニを捕まえたり、
日が暮れそうになると、父がよく微笑みながら歌っていた。「帰ろかな、帰るのよそうかな。」
あの時は、あの歌は父のアドリブで作ったのかと思っていた。
また、家族で関東一円の景勝地には結構連れて行ってもらった。
行き帰りの電車は僕は大好きだった。
だから、僕の小さい時の夢は電車の運転士になることだった。
父は大方は気難しくて厳しかったので、当時はありがたい面がほとんど見えていなかったのだが、今こうして考えると、父がやってくれたことは、ありがたいことがすごく一杯あるのである。
こうして考えると、家族を顧みない仕事人間とは言えなかったかもしれない。
また、父は僕に電気や機械の作業を徹底して教えた。
コンセントの配線とか、家電の簡単な修理とか、機械の組み立てとか。
すごく厳しく習った。
父のいた会社の業界は機械とは言っても、やや特殊な業界である。
父は、自分の技術には自信を持っているが、接待で勝負が決まる面も大きかったようだ。
そこで父は、セールスエンジニアとして頑張る一方、接待にもかなり力を注いでいたようだ。
主な出張地は、京都、秋田、新潟など。
当時は寝台車を駆使して主張していた。
お土産は五色豆、柴漬け、八つ橋、笹団子など。
そして、時間がなかった時は与野駅で五家宝。
子供ながらに旨かったなあ。(マセた子供)
こうして、超仕事人間の父であり、家や子供のことは母や祖母に任せていた父。
食べ物も、「ご飯粒は1粒も残すな!」「大豆は畑の肉だ!」と声高に言い、質実剛健を訴えていた父。
父はお洒落であり、高価なリーガルの靴をすごく大切に履き、長持ちさせていた。
あの当時、僕の父親像は、超まじめで仕事人間で、厳しい人間。
でも、でも、実態はそればかりでなかった!
というのは、僕が40歳も過ぎた頃、父は徐々に昔話を僕に話すようになってきた。
すると、かなり意外なことが。
父は、接待ではご馳走をいっぱい食べていたのだ。
そして、父は接待と称し、結構ハデなことをやっていたのだ。
家族には質素で栄養のある食物を奨励し、でも自分結構旨い物を食べていた。
でも、そんな父は僕は許せるのである。
考えてみたら、僕は父から受け継いだものや、影響を受けたものがいっぱいある。
やはり親の子だ。
親父よ、育ててくれてありがとう。
そしていろいろ影響を与えてくれてありがとう。
そして、親父の仕事、本当にお疲れさま。
これからはオレが親父の精神、引き継ぐね。
ぜひ長生きしてください。
ありがとう。
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