人間の処理能力を超えたIT技術は退歩を招く
みなさまこんばんは。
いよいよ明日から師走ですね。
悪いことしているわけではないのに、焦りますね(^^;
今日の要約
・今やIT全盛時代だが、その分よい時代になったと言えないのではないか。むしろ昭和40年代はよかったのでは?
・メールに代表される現代のIT技術は日々、すごいストレスを生む。
・その理由は、IT技術が人間の処理能力を超えたからだろう。
・概ね、FAX時代まではよかった。
・よい時代を取り戻すには、IT技術をやめるわけはいかないから、その煩わしさをさばくロボットのようなものを作るのがよいだろう。
おまけ・・・ちょっと早いけど、クリスマスソング。
いよいよ明日から師走ですね。
悪いことしているわけではないのに、焦りますね(^^;
今日の要約
・今やIT全盛時代だが、その分よい時代になったと言えないのではないか。むしろ昭和40年代はよかったのでは?
・メールに代表される現代のIT技術は日々、すごいストレスを生む。
・その理由は、IT技術が人間の処理能力を超えたからだろう。
・概ね、FAX時代まではよかった。
・よい時代を取り戻すには、IT技術をやめるわけはいかないから、その煩わしさをさばくロボットのようなものを作るのがよいだろう。
おまけ・・・ちょっと早いけど、クリスマスソング。
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今日は僕の身の回りことを徒然に綴りながら、定性的ではありますが、ITの本来的あり方に迫ってみます。
今やIT全盛時代。
さらにその進歩は留まることを知らない。
では、我々の生活はITがまだほとんど発達していなかった頃、例えば昭和40年代、に比べて進歩したのだろうか?
もちろん、「微視的」に見れば進歩はいっぱいある。
でも、全体的にはどうだろうか?
すっかり疲れ果てて、アップアップだというのは僕だけではないだろう。
むしろ昭和40年代の方が幸せな気さえする。映画「若大将シリーズ」なんかを観ていると、ほんとそう思う。
業務用のメールには、毎日少なくとも50件くらい、多ければ100件近いメールが入る。
重要なものも重要でないものも、急ぎのものも急ぎでないものも、責任のあるものもないものも、インターナルものも外部からのものも、わかりやすいものもわかりにくいものも、誠実なものも不埒なものも・・・・・、などなど「玉石混合」なのである。
読むべきもの、熟読すべきもの、対応すべきもの、アクションすべきもの、反省すべきもの、予定を立てるべきもの・・・、などを見分けることがまず大変だし、必ずしも適切な状態で来ているとは限らないし、こちらも誤って発信することもあるから軌道修正も必要だし。
とにかく、やることがものすごく多いのである。
ならば、適当にあしらったらどうか。
すると、重要顧客からの大事な依頼事項を見失うことになる。
また、メールというのは、相手がどんな状態だろうと、相手がどんな考えだろうと、相手に責任があろうがなかろうが、一方的に送れてしまう。
そして、少しでもニュアンスを取り違えると誤解を生みやすい。
メールに関する文化とかマナーと言ったものはまだまだ確立されたとは言い難い。
出張先で忙しいのに、平気で承認のためのメールを送り付けてくる。
また、いくら顧客や上役だからと言って、送り付ければいつでも相手が対応できるものでもない。
プライベートでもメールのもつ弊害は多い。
せっかくメールを送っても、そのアカウントをしばらくチェックしていないなんてザラだ。
最近ではフリーメールが便利なので、複数のアカウントを持っている人も多いが、その全てを頻繁にチェックしている人は多くはないだろう。
ならば、昔、手紙でやり取りしていた方が、確実と言えないか。
また、メールは相手の機微を窺ったり、ディスカションが苦手である。
淡々と連絡するにはすごく便利だけど。
以上、メールを例にとって、やや詳しい検証をしてみた。
メールというのは昔のコミュニケーションに比べれば格段のIT的進歩だが、世の中はその技術的進歩ほどに進歩していないのではないか。
それどころか、人間に大きな負担と精神的ストレス、そして場合により時間の占有と肉体的ストレスも、を強いているのではないか。
もしその見方が正しいとして、では、なぜそうなるのかについて、僕が出した結論は、「メールというIT技術は、人間が処理できる能力を超えたものであるから」である。
古いコミュニケーション手段、例えば手紙、においては、人間が手紙をいくらたくさん書いたところで、相手がそれを処理できないほどアップアップすることはなかった。
だから、手紙の処理は人間性の範疇で行うことができた。
しかし今は、メールは人間の処理能力を超えた。人間がメールに翻弄されているのである。
旧来のコミュニケーションというのは、相手が遠くに居れば伝わりにくいし、相手が忙しければ受け入れにくいし、相手が嫌であればやはり受け入れにくい。
考えてみれば、それは大事なことであった。
にもかかわらず、現代のメールその他のIT技術は、そういったことを全て超越してしまっている。
それを超越すればどんなに素晴らしい世界が待っているかを期待されたが、実は失うものの方が多かった(ようである)。
ではでは。
一体いつから、IT技術が人間の処理能力を超えてしまったのか????
次のような図を描いてみた。

僕の考えでは、FAXまではよかった。
FAXはメールほど気軽に打てない。
考えをかなりまとめて、相手の状況も慮ってからでないと送信できない。
そして、送ったからと言って相手は絶対に対処するとも限らない。
電話その他でよくフォローする必要があった。
ではではでは。いよいよ終盤に近づいていた。
この現代の”IT地獄”をいかに脱するのか。
キーとしては、「相手が遠くに居れば伝わりにくいし、相手が忙しければ受け入れにくいし、相手が嫌であればやはり受け入れにくい。」という状態にすることだろう。
この当たり前のことを取り戻したい。
その1は、昔の時代に戻ること。
現代の利器であるスマホ、携帯、メール、PCは捨て、FAXまでに戻すこと。
しかしこれは、よほどの独裁者でも現れないと現実性はない。
これは諦めよう。
人間は技術進歩する方向にしか進めないことは歴史が証明している。
その2は、契約制により「相手が遠くに居れば伝わりにくいし、相手が忙しければ受け入れにくいし、相手が嫌であればやはり受け入れにくい。」という状態にすること。
まずはライセンス制。
特定の人にだけ、新進のIT技術を利用することを許可する。
原理的にあり得ても、実際は難しいだろう。
次は、遠い所にいる人へのコミュニケーション、時間のかかるコミュニケーション、内容の濃いコミュニケーションを行う場合を割高にする。
従量制だ。
本来はこうあるべきだ。
その昔、NTTが遠隔地への市外通話が高かったのも訳がある。
しかしこの方法は、基準作りが混迷を極めよう。
事実上、無理であろう
その3は、現代のIT技術は温存するが、そのやりとりはコンピューターにやらせるというもの。
人間個人が直接IT諸技術を駆使するのではなく、インターフェースとしての「役割」を介在させる。
それは、メールやスマホに付随するコンピュター的なものでもいいし、一括してその人間をサポートするロボットのようなものでもいい。
その「役割」は、その人間の能力や責任、やりたいことを理解しつくしており、コミュニケーションの相手の人のインターフェースとの間で、IT技術を駆使しながらも合理的にやり取りし、ベストな着地点を見出すものである。
そうすれば、人間同士は昔ながらの健全でゆとりのある精神状態を保ちながら、インターフェースの機能を最大限に発揮する。
昔のよい人間性を保ちながら、現代の情報技術を活用できる、というwin-winシナリオである。
どうだろうか!
もう少しくだけて言えば、漫画「パーマン」に出てきたコピーロボットを皆が持つようなものである。
しかもIT技術を駆使したコピーロボット。
この現代のストレスフルな煩わしさをロボットに代行してもらおうというのである。
おまけ・・・ちょっと早いけど、クリスマスソング。
今日は僕の身の回りことを徒然に綴りながら、定性的ではありますが、ITの本来的あり方に迫ってみます。
今やIT全盛時代。
さらにその進歩は留まることを知らない。
では、我々の生活はITがまだほとんど発達していなかった頃、例えば昭和40年代、に比べて進歩したのだろうか?
もちろん、「微視的」に見れば進歩はいっぱいある。
でも、全体的にはどうだろうか?
すっかり疲れ果てて、アップアップだというのは僕だけではないだろう。
むしろ昭和40年代の方が幸せな気さえする。映画「若大将シリーズ」なんかを観ていると、ほんとそう思う。
業務用のメールには、毎日少なくとも50件くらい、多ければ100件近いメールが入る。
重要なものも重要でないものも、急ぎのものも急ぎでないものも、責任のあるものもないものも、インターナルものも外部からのものも、わかりやすいものもわかりにくいものも、誠実なものも不埒なものも・・・・・、などなど「玉石混合」なのである。
読むべきもの、熟読すべきもの、対応すべきもの、アクションすべきもの、反省すべきもの、予定を立てるべきもの・・・、などを見分けることがまず大変だし、必ずしも適切な状態で来ているとは限らないし、こちらも誤って発信することもあるから軌道修正も必要だし。
とにかく、やることがものすごく多いのである。
ならば、適当にあしらったらどうか。
すると、重要顧客からの大事な依頼事項を見失うことになる。
また、メールというのは、相手がどんな状態だろうと、相手がどんな考えだろうと、相手に責任があろうがなかろうが、一方的に送れてしまう。
そして、少しでもニュアンスを取り違えると誤解を生みやすい。
メールに関する文化とかマナーと言ったものはまだまだ確立されたとは言い難い。
出張先で忙しいのに、平気で承認のためのメールを送り付けてくる。
また、いくら顧客や上役だからと言って、送り付ければいつでも相手が対応できるものでもない。
プライベートでもメールのもつ弊害は多い。
せっかくメールを送っても、そのアカウントをしばらくチェックしていないなんてザラだ。
最近ではフリーメールが便利なので、複数のアカウントを持っている人も多いが、その全てを頻繁にチェックしている人は多くはないだろう。
ならば、昔、手紙でやり取りしていた方が、確実と言えないか。
また、メールは相手の機微を窺ったり、ディスカションが苦手である。
淡々と連絡するにはすごく便利だけど。
以上、メールを例にとって、やや詳しい検証をしてみた。
メールというのは昔のコミュニケーションに比べれば格段のIT的進歩だが、世の中はその技術的進歩ほどに進歩していないのではないか。
それどころか、人間に大きな負担と精神的ストレス、そして場合により時間の占有と肉体的ストレスも、を強いているのではないか。
もしその見方が正しいとして、では、なぜそうなるのかについて、僕が出した結論は、「メールというIT技術は、人間が処理できる能力を超えたものであるから」である。
古いコミュニケーション手段、例えば手紙、においては、人間が手紙をいくらたくさん書いたところで、相手がそれを処理できないほどアップアップすることはなかった。
だから、手紙の処理は人間性の範疇で行うことができた。
しかし今は、メールは人間の処理能力を超えた。人間がメールに翻弄されているのである。
旧来のコミュニケーションというのは、相手が遠くに居れば伝わりにくいし、相手が忙しければ受け入れにくいし、相手が嫌であればやはり受け入れにくい。
考えてみれば、それは大事なことであった。
にもかかわらず、現代のメールその他のIT技術は、そういったことを全て超越してしまっている。
それを超越すればどんなに素晴らしい世界が待っているかを期待されたが、実は失うものの方が多かった(ようである)。
ではでは。
一体いつから、IT技術が人間の処理能力を超えてしまったのか????
次のような図を描いてみた。

僕の考えでは、FAXまではよかった。
FAXはメールほど気軽に打てない。
考えをかなりまとめて、相手の状況も慮ってからでないと送信できない。
そして、送ったからと言って相手は絶対に対処するとも限らない。
電話その他でよくフォローする必要があった。
ではではでは。いよいよ終盤に近づいていた。
この現代の”IT地獄”をいかに脱するのか。
キーとしては、「相手が遠くに居れば伝わりにくいし、相手が忙しければ受け入れにくいし、相手が嫌であればやはり受け入れにくい。」という状態にすることだろう。
この当たり前のことを取り戻したい。
その1は、昔の時代に戻ること。
現代の利器であるスマホ、携帯、メール、PCは捨て、FAXまでに戻すこと。
しかしこれは、よほどの独裁者でも現れないと現実性はない。
これは諦めよう。
人間は技術進歩する方向にしか進めないことは歴史が証明している。
その2は、契約制により「相手が遠くに居れば伝わりにくいし、相手が忙しければ受け入れにくいし、相手が嫌であればやはり受け入れにくい。」という状態にすること。
まずはライセンス制。
特定の人にだけ、新進のIT技術を利用することを許可する。
原理的にあり得ても、実際は難しいだろう。
次は、遠い所にいる人へのコミュニケーション、時間のかかるコミュニケーション、内容の濃いコミュニケーションを行う場合を割高にする。
従量制だ。
本来はこうあるべきだ。
その昔、NTTが遠隔地への市外通話が高かったのも訳がある。
しかしこの方法は、基準作りが混迷を極めよう。
事実上、無理であろう
その3は、現代のIT技術は温存するが、そのやりとりはコンピューターにやらせるというもの。
人間個人が直接IT諸技術を駆使するのではなく、インターフェースとしての「役割」を介在させる。
それは、メールやスマホに付随するコンピュター的なものでもいいし、一括してその人間をサポートするロボットのようなものでもいい。
その「役割」は、その人間の能力や責任、やりたいことを理解しつくしており、コミュニケーションの相手の人のインターフェースとの間で、IT技術を駆使しながらも合理的にやり取りし、ベストな着地点を見出すものである。
そうすれば、人間同士は昔ながらの健全でゆとりのある精神状態を保ちながら、インターフェースの機能を最大限に発揮する。
昔のよい人間性を保ちながら、現代の情報技術を活用できる、というwin-winシナリオである。
どうだろうか!
もう少しくだけて言えば、漫画「パーマン」に出てきたコピーロボットを皆が持つようなものである。
しかもIT技術を駆使したコピーロボット。
この現代のストレスフルな煩わしさをロボットに代行してもらおうというのである。
おまけ・・・ちょっと早いけど、クリスマスソング。
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