「やりたくないことはやらなくてはいけない」・・・私の人生
(今日は遅くまで出かけているので予約投稿です。)
みなさまこんばんは。
いよいよ今年もわずかとなりましたね。
毎年年末というのは、掲げていた目標が未達に終わる瞬間でもあり、自己反省しきりの時期であります。
みなさま方におかれましては、どのような年末をお過ごしでしょうか?
今日の要約
・僕がこれまでの人生において基本的なこととしていることは、最初はやりたくないことだった。
・でもやりたくないことこそやるべきだ、という考えがなぜか自然に身に付いていた。
・学生時代からの逸話を交えて、やりたくないことをやったことを気楽に綴ってみた。
みなさまこんばんは。
いよいよ今年もわずかとなりましたね。
毎年年末というのは、掲げていた目標が未達に終わる瞬間でもあり、自己反省しきりの時期であります。
みなさま方におかれましては、どのような年末をお過ごしでしょうか?
今日の要約
・僕がこれまでの人生において基本的なこととしていることは、最初はやりたくないことだった。
・でもやりたくないことこそやるべきだ、という考えがなぜか自然に身に付いていた。
・学生時代からの逸話を交えて、やりたくないことをやったことを気楽に綴ってみた。
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トランプ大統領の「エルサレム首都発言」で再び、揉めている中東です。
この問題は確かに大変です。
しかし、イスラエルというのを勉強するととても得るものが大きいので、お勧めします。
いろんな人が本を書いていますが、糸川英夫さんの本がよいと思います。
ぜひ読んでみてください。
また、過去記事「イスラエルという国」もご参照ください。
さて、自分を支える基本的な事柄というのは誰にでもあるでしょう。
例えば僕の場合は下記のようなことです。
・理系の学問を学び、理系ベースで考え、その考えで仕事をし、世の中に役立てる。
・英語を使い、少しでも国際的な仕事をする。英語の音楽などを楽しむ。
・音楽を楽しむ。(しかもクラシック音楽愛好家には殴り込みをかける。(半分冗談です(^^)/))
・自分の生まれながらの性格(おとなしい、引っ込み思案、運動に消極的)を改革する。
こうした基本的なことを身に付けようと思ったきっかけは、今日のタイトルにもある通り、「やりたくないことはやらなくてはいけない」という漠然とした考えからでした。
今日は、そのあたりのことを気楽に綴っていきます。(無理に結論は出しません。一緒に考えましょう。)
僕は子供の頃は、理系も文系も等しく、いろんなことに関心がありました。
祖母の影響で自然科学に多いに興味を持ちましたし、両親が地図を買ってくれたりしたので、地理も好きでした。
中学、高校と進むにつれ、英語にも大きな関心を持ちましたし、理系も文系も勉強はどれも大体好きでした。
高2で理系か文系か決めなくてはいけない時、すごく悩みました。
文系もすごく捨てがたいものがありました。
でも、決定的な決め手がありました。それは、理系の方が勉強も実習も大変だということ。(大学進学以降も含めての話です。)
大変なことは絶対に回避してはならない、と強く思いました。
なぜこう思ったのかは自分ながら、はっきりはわかりません。
おそらくは、「苦労は買ってでも経験しなければならない」とか「困難は乗り越えなければならない」という両親の教えが大きかったと思います。
この頃には、「やりたくないことはやらなくてはいけない」という考え方がほぼ身に付いていたと思います。
僕は大学は化学でした。
合格が決まり、履修要綱に従い手続きをしていくと、一般教養の英語の授業として英米人の先生が教える「EEクラス」を選べるというので、迷わず選びました。ここでも「苦労は買ってでもすべし」という考えと、今後の国際時代を考えてのことでした。
ところがフタを開けてみると、30人の学科の入学生のうち、EEクラスを選んだのは、僕含めわずか3人でした。
大学では、文系中心のサークルに入り、副幹事長にまでなりました。
「理系然」とした学生から脱却したかったためです。
本当は引っ込み思案であるゆえ、こうしたことはかなり苦手だったのですが、ここでも敢えて苦手なことに挑みました。
修士課程まで進みました。
卒業後、某大手企業のT社に入社し、その後、T社とアメリカのD社の合弁企業に配属となりました。
実は修士時代に、その合弁企業から奨学金をもらっていた関係で、配属を希望しました。
父は純国産企業がよかったので反対されましたが、ここでも、「これからは国際舞台は大事」と考えました。
でも実は僕自身も本当は大変そうだったので、行きたくはなかったのですが、だからこそ入社しました。
2005年には欧系の企業へ転職しました。
24歳以来、今に至るまで、英語というものが自分の人生において、仕事でも趣味でもとても大きな位置付けであり続けています。
ところが、日本人の大多数は英語とは関係ない生活を送っています。(このことはまた改めて書いてみたいと思います。)
ふつう、理系の仕事をしていますと、どうしても世間と隔絶しがちです。
日本の経済発展を支える技術を開発し続けてきたのは、日本の優秀な理系企業人たちです。
本来、こうした彼ら、彼女らも堂々とした遊びや芸術や交流を楽しむべきですし、そして楽しむ力を持っているはずです。
ところが、現実は田舎の社宅に埋もれ、安月給で、少ない小遣いで地味に生きているのが現実です。
また、「同業者」同士では話ができても、世間一般のふつうの人たちとは話ができないのが、こうした技術者の人たちです。
実は僕自身も、30代半ばくらいまでは、同業の人間としか話ができない典型的な理系人間でした。
自分では、大学時代に遊んでいたつもりだったのですが、まだまだ殻に閉じこもっていたのでした。
そこで、一大奮起!
当時ランニングをやっていた僕は、地元のサークルに入り、ランニング、山登り、飲み会、カラオケなどを地元の人たちと楽しんだのです。
これも最初はかなり大変でした。
専門とか業界のことは一切関係ない、ただ人と人とのコミュニケーションです。
全く慣れていませんでした。
でも、これも培いました。大きな財産になりました。
音楽仲間もできました。
この頃ですね、「人を丸ごと飲み込む」という考えを持つに至ったのも。
自己基準で人を評価するのではなくて、人をまず全部飲み込んでから、自分の中の軸を発展させる、です。
また、働きながら博士も取得しました。
これも大きな苦労でした。
こんなもの絶対にやりたくなかったでしたけど、「やらねばならない」とささやく自分がいましたので、どうにかやったのです。
音楽については、小学校低学年までの母親によるピアノ教育に嫌気をさして、しばらく遠ざかっていましたが、高校の時に、ピアノをロックの道具に使うビートルズにノックダウンされたのをきっかけに、これまでロック中心に楽しんできています。
音楽の楽しみ方はこれまでずいぶん書いてきたので、詳しくは過去記事をご覧ください。
そんな僕が、ブログをきっかけに、クラシックピアノを中心とするピアノサークルや、いろんな練習会や催し物を紹介いただきました。
普通ですと、僕のようなロック派の人間はこうした場は苦手なのですが、ここでも「苦手ことはやらなくてはならない」と考え、参加させていただきました。
クラシック派の方々の音楽の取り組みは、ロック派とは違うところがたくさんあります。例えば、コード進行として捉えないとか、先生につくとか、楽譜を見るとか。
でもそうした違いを乗り越えて、同じ音楽である共有、そして人と人との交流、そうしたものを培いました。
そして、僕は自分なりの考えで、イヴェントを構成し、何度か実行しました。
これからは、歳も歳ですし、苦手なことを敢えてやるというのはそろそろ卒業して、自分の持っているものを世の中に役立てるほうを中心に考えていきたいと思っています。
トランプ大統領の「エルサレム首都発言」で再び、揉めている中東です。
この問題は確かに大変です。
しかし、イスラエルというのを勉強するととても得るものが大きいので、お勧めします。
いろんな人が本を書いていますが、糸川英夫さんの本がよいと思います。
ぜひ読んでみてください。
また、過去記事「イスラエルという国」もご参照ください。
さて、自分を支える基本的な事柄というのは誰にでもあるでしょう。
例えば僕の場合は下記のようなことです。
・理系の学問を学び、理系ベースで考え、その考えで仕事をし、世の中に役立てる。
・英語を使い、少しでも国際的な仕事をする。英語の音楽などを楽しむ。
・音楽を楽しむ。(しかもクラシック音楽愛好家には殴り込みをかける。(半分冗談です(^^)/))
・自分の生まれながらの性格(おとなしい、引っ込み思案、運動に消極的)を改革する。
こうした基本的なことを身に付けようと思ったきっかけは、今日のタイトルにもある通り、「やりたくないことはやらなくてはいけない」という漠然とした考えからでした。
今日は、そのあたりのことを気楽に綴っていきます。(無理に結論は出しません。一緒に考えましょう。)
僕は子供の頃は、理系も文系も等しく、いろんなことに関心がありました。
祖母の影響で自然科学に多いに興味を持ちましたし、両親が地図を買ってくれたりしたので、地理も好きでした。
中学、高校と進むにつれ、英語にも大きな関心を持ちましたし、理系も文系も勉強はどれも大体好きでした。
高2で理系か文系か決めなくてはいけない時、すごく悩みました。
文系もすごく捨てがたいものがありました。
でも、決定的な決め手がありました。それは、理系の方が勉強も実習も大変だということ。(大学進学以降も含めての話です。)
大変なことは絶対に回避してはならない、と強く思いました。
なぜこう思ったのかは自分ながら、はっきりはわかりません。
おそらくは、「苦労は買ってでも経験しなければならない」とか「困難は乗り越えなければならない」という両親の教えが大きかったと思います。
この頃には、「やりたくないことはやらなくてはいけない」という考え方がほぼ身に付いていたと思います。
僕は大学は化学でした。
合格が決まり、履修要綱に従い手続きをしていくと、一般教養の英語の授業として英米人の先生が教える「EEクラス」を選べるというので、迷わず選びました。ここでも「苦労は買ってでもすべし」という考えと、今後の国際時代を考えてのことでした。
ところがフタを開けてみると、30人の学科の入学生のうち、EEクラスを選んだのは、僕含めわずか3人でした。
大学では、文系中心のサークルに入り、副幹事長にまでなりました。
「理系然」とした学生から脱却したかったためです。
本当は引っ込み思案であるゆえ、こうしたことはかなり苦手だったのですが、ここでも敢えて苦手なことに挑みました。
修士課程まで進みました。
卒業後、某大手企業のT社に入社し、その後、T社とアメリカのD社の合弁企業に配属となりました。
実は修士時代に、その合弁企業から奨学金をもらっていた関係で、配属を希望しました。
父は純国産企業がよかったので反対されましたが、ここでも、「これからは国際舞台は大事」と考えました。
でも実は僕自身も本当は大変そうだったので、行きたくはなかったのですが、だからこそ入社しました。
2005年には欧系の企業へ転職しました。
24歳以来、今に至るまで、英語というものが自分の人生において、仕事でも趣味でもとても大きな位置付けであり続けています。
ところが、日本人の大多数は英語とは関係ない生活を送っています。(このことはまた改めて書いてみたいと思います。)
ふつう、理系の仕事をしていますと、どうしても世間と隔絶しがちです。
日本の経済発展を支える技術を開発し続けてきたのは、日本の優秀な理系企業人たちです。
本来、こうした彼ら、彼女らも堂々とした遊びや芸術や交流を楽しむべきですし、そして楽しむ力を持っているはずです。
ところが、現実は田舎の社宅に埋もれ、安月給で、少ない小遣いで地味に生きているのが現実です。
また、「同業者」同士では話ができても、世間一般のふつうの人たちとは話ができないのが、こうした技術者の人たちです。
実は僕自身も、30代半ばくらいまでは、同業の人間としか話ができない典型的な理系人間でした。
自分では、大学時代に遊んでいたつもりだったのですが、まだまだ殻に閉じこもっていたのでした。
そこで、一大奮起!
当時ランニングをやっていた僕は、地元のサークルに入り、ランニング、山登り、飲み会、カラオケなどを地元の人たちと楽しんだのです。
これも最初はかなり大変でした。
専門とか業界のことは一切関係ない、ただ人と人とのコミュニケーションです。
全く慣れていませんでした。
でも、これも培いました。大きな財産になりました。
音楽仲間もできました。
この頃ですね、「人を丸ごと飲み込む」という考えを持つに至ったのも。
自己基準で人を評価するのではなくて、人をまず全部飲み込んでから、自分の中の軸を発展させる、です。
また、働きながら博士も取得しました。
これも大きな苦労でした。
こんなもの絶対にやりたくなかったでしたけど、「やらねばならない」とささやく自分がいましたので、どうにかやったのです。
音楽については、小学校低学年までの母親によるピアノ教育に嫌気をさして、しばらく遠ざかっていましたが、高校の時に、ピアノをロックの道具に使うビートルズにノックダウンされたのをきっかけに、これまでロック中心に楽しんできています。
音楽の楽しみ方はこれまでずいぶん書いてきたので、詳しくは過去記事をご覧ください。
そんな僕が、ブログをきっかけに、クラシックピアノを中心とするピアノサークルや、いろんな練習会や催し物を紹介いただきました。
普通ですと、僕のようなロック派の人間はこうした場は苦手なのですが、ここでも「苦手ことはやらなくてはならない」と考え、参加させていただきました。
クラシック派の方々の音楽の取り組みは、ロック派とは違うところがたくさんあります。例えば、コード進行として捉えないとか、先生につくとか、楽譜を見るとか。
でもそうした違いを乗り越えて、同じ音楽である共有、そして人と人との交流、そうしたものを培いました。
そして、僕は自分なりの考えで、イヴェントを構成し、何度か実行しました。
これからは、歳も歳ですし、苦手なことを敢えてやるというのはそろそろ卒業して、自分の持っているものを世の中に役立てるほうを中心に考えていきたいと思っています。
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