音楽を演(や)る側から聴く音楽とは
みなさまこんばんは。
いやあ、寒い雨ですね。今日は強い風も吹いています。
お元気でしょうか?
今日の記事の要約
・今日に限っては、要約を書いてしまうと興ざめなので、敢えて略させていただきます。
いやあ、寒い雨ですね。今日は強い風も吹いています。
お元気でしょうか?
今日の記事の要約
・今日に限っては、要約を書いてしまうと興ざめなので、敢えて略させていただきます。
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それにしても涼しい日が続きます。
ここまで涼しいと、あの1993年の冷夏を思い出します。
米は超不作となり、急遽タイ米を輸入しました。
と言っても、もう26年も経つので、多くの若い人たちは知らないと思います。
僕は1993年というと2つのことを思い出します。
1つは、あの「冬彦さん」で有名になったTVドラマ「誰にも言えない」です。
そしてその主題歌であるユーミンの「真夏の夜の夢」。
多くの人はあのドラマでは、佐野史郎さん、賀来千香子さん、野際陽子さんが印象的だったと思いますが、僕は脇役の羽場裕一さんが最も印象的でした。
もう1つはNHK教育TVの宇宙に関する講座。
当時阪大教授だった池内了先生の話でした。毎週1回で半年くらい続いたように思います。
小さい頃から宇宙には大きな興味がありましたが、この講座を見たことで、俄然、宇宙を深く知ろうと思うきっかけとなりました。
2つとも極端な冷夏とセットだから、1993年だったとすぐにわかるのです。
ズバリ訊きますが、英語をテーマにした記事は興味ないですか?
ブログを始めてかれこれ10年になりますが、英語をテーマにした記事の内容についてコメントをもらったことがほとんどありません。
英語は苦手だとか、もっとやらないといけないとか、そういうコメントはいただいたことはあるのですが、記事の内容そのものについてコメントをもらったことがほとんどありません。
英語でブログを書かれる方とか、日本語英語の併記で書かれる方はいらっしゃいますが、そういう方は英語を使いこなすことに意義を見出していらっしゃるようで、英語そのものへの興味というのとは違って見えます。
では本題。
巷で時々言われるのは、「あなたは音楽をやらないので音楽を語る資格がない」、「あなたは絵を描かないので美術を語る資格がない」。
もちろん、いずれも間違いである。
人は等しく音楽、美術を鑑賞する自由があり、評する自由がある。
そしてその言論の自由を制してはならない。
その前提で思うところを言わせていただく。
音楽を演(や)る者と演らない者では音楽の聴き方は違うと思う。
一応、これでも音楽を演る者のはしくれとして、そう思うのだ。
僕は、何かの楽曲を聴く時、それぞれの楽器の人がどう演奏しているのかにまず思いが行く。
このギターはこんな指使いで弾いているんだな、このベースはどんな構えで弾いているのかな、このドラムは何を叩いているのかな、このボーカルはよくここまで出るな、とか。
そして、このようなフレーズや編曲はどうやって生み出されたのかな、について思いが行く。
そして、ああ、この演奏の仕方はすごいなとか、オレにもこれは何とか思い付くかな、とか。
あれこれ思いつつも、たいていは感動することが多い。
数年前僕は、あるクラシック音楽家の方とちょっとしたディスカションを行ったことがある。
その方はクラシック畑であり、声楽の基礎を学んできた。
その方が言うには、ポール・マッカートニーは歌が下手だと言うのである。
でも僕は敢えて「ポールは歌が上手い」と言い張った。
その方がなぜポールは歌が下手だと思うかは実は理解はできていたが、それだけで世界ができてしまっていると感じたので敢えて挑んだ。
ポールは、ノンエリート上がりだが、その自らの創意工夫により、レディ・マドンナやレット・イット・ビーに見られるようなエルヴィス・プレスリー張りの太い声とか、超高音とか、楽器を弾きながらの歌の上手さとか。
そりゃ、オペラ歌手に比べれば下手であるが、上手いボーカルだとは確実に言えるのである。
小学生の奏でる楽器であっても、素晴らしい音楽性を感じることがある。
音楽を自分で演らない人が、ある楽曲を聴く場合は、自分の感性のみによる。
それに対し、自分で音楽を演る場合、その感じ方は、より奥深くなる方向ではあるように思う。
ところで、音楽を演らない人はおそらく音楽を右脳で聴くのだろうが、音楽を演る人は左脳で聴く比率が高いだろう。
このことがどう効いてくるのかはわからない。
だから、結局、そう簡単には比較をするのは難しそうだ。
少なくとも言えることは、音楽を演る者は、左脳は働かせずに、全く右脳のみで感性で音楽を聴こうと思ってもできないということだ。
僕は絵は全く描かないしわからない。
だから絵を観る時は、自分の感性だけで観る。
一度、音楽もこんな風に聴いてみたいと思う。
でもその方法がわからない。
イヤホンを左耳のみにはめて、右脳のみに音を聴かせてみようか。
それにしても涼しい日が続きます。
ここまで涼しいと、あの1993年の冷夏を思い出します。
米は超不作となり、急遽タイ米を輸入しました。
と言っても、もう26年も経つので、多くの若い人たちは知らないと思います。
僕は1993年というと2つのことを思い出します。
1つは、あの「冬彦さん」で有名になったTVドラマ「誰にも言えない」です。
そしてその主題歌であるユーミンの「真夏の夜の夢」。
多くの人はあのドラマでは、佐野史郎さん、賀来千香子さん、野際陽子さんが印象的だったと思いますが、僕は脇役の羽場裕一さんが最も印象的でした。
もう1つはNHK教育TVの宇宙に関する講座。
当時阪大教授だった池内了先生の話でした。毎週1回で半年くらい続いたように思います。
小さい頃から宇宙には大きな興味がありましたが、この講座を見たことで、俄然、宇宙を深く知ろうと思うきっかけとなりました。
2つとも極端な冷夏とセットだから、1993年だったとすぐにわかるのです。
ズバリ訊きますが、英語をテーマにした記事は興味ないですか?
ブログを始めてかれこれ10年になりますが、英語をテーマにした記事の内容についてコメントをもらったことがほとんどありません。
英語は苦手だとか、もっとやらないといけないとか、そういうコメントはいただいたことはあるのですが、記事の内容そのものについてコメントをもらったことがほとんどありません。
英語でブログを書かれる方とか、日本語英語の併記で書かれる方はいらっしゃいますが、そういう方は英語を使いこなすことに意義を見出していらっしゃるようで、英語そのものへの興味というのとは違って見えます。
では本題。
巷で時々言われるのは、「あなたは音楽をやらないので音楽を語る資格がない」、「あなたは絵を描かないので美術を語る資格がない」。
もちろん、いずれも間違いである。
人は等しく音楽、美術を鑑賞する自由があり、評する自由がある。
そしてその言論の自由を制してはならない。
その前提で思うところを言わせていただく。
音楽を演(や)る者と演らない者では音楽の聴き方は違うと思う。
一応、これでも音楽を演る者のはしくれとして、そう思うのだ。
僕は、何かの楽曲を聴く時、それぞれの楽器の人がどう演奏しているのかにまず思いが行く。
このギターはこんな指使いで弾いているんだな、このベースはどんな構えで弾いているのかな、このドラムは何を叩いているのかな、このボーカルはよくここまで出るな、とか。
そして、このようなフレーズや編曲はどうやって生み出されたのかな、について思いが行く。
そして、ああ、この演奏の仕方はすごいなとか、オレにもこれは何とか思い付くかな、とか。
あれこれ思いつつも、たいていは感動することが多い。
数年前僕は、あるクラシック音楽家の方とちょっとしたディスカションを行ったことがある。
その方はクラシック畑であり、声楽の基礎を学んできた。
その方が言うには、ポール・マッカートニーは歌が下手だと言うのである。
でも僕は敢えて「ポールは歌が上手い」と言い張った。
その方がなぜポールは歌が下手だと思うかは実は理解はできていたが、それだけで世界ができてしまっていると感じたので敢えて挑んだ。
ポールは、ノンエリート上がりだが、その自らの創意工夫により、レディ・マドンナやレット・イット・ビーに見られるようなエルヴィス・プレスリー張りの太い声とか、超高音とか、楽器を弾きながらの歌の上手さとか。
そりゃ、オペラ歌手に比べれば下手であるが、上手いボーカルだとは確実に言えるのである。
小学生の奏でる楽器であっても、素晴らしい音楽性を感じることがある。
音楽を自分で演らない人が、ある楽曲を聴く場合は、自分の感性のみによる。
それに対し、自分で音楽を演る場合、その感じ方は、より奥深くなる方向ではあるように思う。
ところで、音楽を演らない人はおそらく音楽を右脳で聴くのだろうが、音楽を演る人は左脳で聴く比率が高いだろう。
このことがどう効いてくるのかはわからない。
だから、結局、そう簡単には比較をするのは難しそうだ。
少なくとも言えることは、音楽を演る者は、左脳は働かせずに、全く右脳のみで感性で音楽を聴こうと思ってもできないということだ。
僕は絵は全く描かないしわからない。
だから絵を観る時は、自分の感性だけで観る。
一度、音楽もこんな風に聴いてみたいと思う。
でもその方法がわからない。
イヤホンを左耳のみにはめて、右脳のみに音を聴かせてみようか。
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