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言葉の移り変わりというもの

みなさまこんにちは。
昨日は夏日。今日は雪。
すごい変化ですね。
お元気でしょうか?

今日は言葉について語ります。
なお、今回の記事には既出の内容を含みますが、最近新しい読者様も多いことからご了承ください。

言葉というものは常に時代と共に少しずつ変わっていくものです。
古い世代の人たちは、こうした変化を苦々しく思うことが多いです。「若い奴らはなってない」とか言って。

「ら抜き言葉」が最初に出現してからもう久しいです。
最初はすごくおかしいと思っていましたが、もうすっかり定着しました。
もう15年くらい前でしょうか、国語学者の金田一春彦先生が、「こうした言葉の変化は時代の要請によることが多いので、必ずしも否定しない」と言っていました。
そのうち「ら抜き言葉」も正式な文法の一態様として認知されるのでしょうか。
僕はこの金田一さんの意見を聞いた時は到底受け入れがたかったのですが、その後だんだん言葉の変化に寛容になってきまして、一部は自らも使うようになってきています。ただし、一つ一つよく考えて自分なりに判断してから使うようにしています。
単に言葉の文化を劣化させるような安易な流行には乗らないようにしています。

呼応の副詞の使い方も時代と共に変わりやすいと思います。
例えば、「全然」。
正しくは、「全然****でない」という風に、否定を伴います。
でも今は、若い人を中心に「全然OKだよ」のように肯定でも使います。というか肯定の場合の方が多いくらいかもしれません。
僕が学生時代から既に使われ始めていましたので、もはや世間には受け入れられたように感じます。
実は今では、僕も「全然元気ですよ」のように使うことがあります。ただし相手を選んでですけど。

僕が中学の時(つまり50年前)、当時かなり年配の古文の先生が、ある授業の時、余談の中で次のようなことを言いました。
「君らねえ、『絶対に****だ』というように肯定で当たり前に使ってるけど、本当は『絶対に****ではない』と否定で使うのが正しいんだぞ」
当時の先生にとって、「絶対に」の使い方のおかしさが、僕の感じた「全然」のおかしさと似たようなものだったのでしょう。

昔であれば、「ありがとうございました」、「お疲れ様でした」と言ったのを、今では若い人を中心に、「ありがとうございます」、「お疲れ様です」と言います。
これも最初はかなり違和感がありましたが、僕はだんだん受け入れてきています。
例えば、仕事を終えて誰かが帰宅するのに「お先に失礼します」と言ったのに対し、「お疲れ様です」のように。
40代後半以降の頭の固い人たち(失礼)は、この時代の変化がわからず、「お疲れ様でした」と自分だけ言い続けています。
僕はいろいろ考えましたが、どうも「お疲れ様です」のほうがしっくりくるんですよ。少なくとも毎日のお決まりの挨拶においては。
何か具体的なことに対しての労いには「お疲れ様でした」と言うかもしれません。
「ありがとうございました」と「ありがとうございます」の差はもう少し複雑な気がします。
例えば、コメントの返事として「ありがとうございます」としか書かない若い人が多いのですが、僕は今でもコメントのお返事には「ありがとうございました」が多いですね。
「お疲れ様です」「ありがとうございます」という現在形は、定常的な慰労や感謝の気持ちを表す場合に使い、「ありがとうございました」は具体的な事柄に感謝を示す場合に使う、という僕なりの切り分けを考えています。
そうでないと、「ありがとうございます」という現在形だけにすると、漫然過ぎて微妙なニュアンスを出せなくなる気がするからです。
よって、「いつもご訪問ありがとうございます」「今回の記事に対してコメントありがとうございました」のように使っています。
まあこれとて柔軟に考えていきますけどね。

「こんにちわ」「こんばんわ」という書き方が一時流行りました。
一時は大の大人も書いていましたが、今はほとんど見かけなくなってきています。
多分、これらは言葉の劣化であると社会が考えたからでしょう。
「こんにちは」「こんばんは」のように、「は」である所以があるから、単に発音さえ合えばよいというものではないからでしょう。

最近、「違く・・」という言い方が一部の30代以下の人たちに流行り始めています。
例えば、「違わない」の代りに「違くない」、「違っていて」の代りに「違くて」のように言います。
これも最初はすごくおかしいというか、単に言葉を知らない人の話し方かと思っていたら、どうも広まりを見せているようなのです。
しかも不思議なのは、いい意味でインパクトを感じるのですよ。
考えてみたら、「よい(良い)」という言葉も、「よくない」「よくて」のように「く」を伴うことから、「違く」も定着してくるのでしょうか。

以上は、使う言葉の変化についてでした。
次は、同じ言葉でも解釈が時代と共に変わってきたと感じる言葉を2つ挙げてみます。

「確信犯」という言葉。
よくこんな使い方をしませんか。
ある職場での話。遅刻常習者のAという社員がいるとします。
Aはある日、友人と飲み会で深酒をしました。案の定(そういえばこれって今の若い人はほとんど言わないなあ)、Aは二日酔いになり、翌朝大遅刻しました。
一緒に飲み会に参加していたBが翌朝言うには、「Aは飲み会の途中から、『いいよいいよ明日遅刻するからさ』と言ってましたよ。全くAは確信犯ですよね」。
つまり確信犯というのは、自分が悪いことを十二分に承知の上、敢えて悪いことを犯すことを意味するのが、今の標準だと思います。

しかし、「確信犯」の意味するところは昔は違っていました。
例えば、国家とか軍部が国民を支配し縛っていることよりも、自分の考え方の方が上位にあるので、その考えに則って行動したことは必ず正しいのだ、のような意味だったと思います。
戦前とか戦後直後の活動家に多かったような気がします。
数十年前のカルト教団の教祖が、殺人をすることを自らの考えにより正当化しているのも似ているかもしれませんが、少しでも「本当はだめなんだけど」という考えがある場合は確信犯とは言わず、全く正しいと信じ切っている人を確信犯と呼んでいた気がします。

もう一つは「禅問答」という言葉。
元々は仏教的には悪い意味はなかったのでしょう。
文字通り禅的な問答。
それが転じて、高尚なやり取りではあるけど、要領を得なくて、不毛なやり取り、のような意味で、やや嘲笑を込めたコメントとして「あれは禅問答のようだ」という使い方が、何十年くらい前から出てきました。
しかし今では、ほぼ悪い意味でしか使わなくなったように思います。しかも、内容的に禅的かどうかは問わず、とにかく抽象的で不毛な議論のことなら何でも指すようになった気がします。

こうした解釈が変化してくるのは何によるものなのでしょう。
時代の要請ということもあるかもしれませんが、そもそも言葉というものは何世代も続いて同じ解釈が伝承されるのは難しいのかもしれませんね。
新しい世代の人が考えることがだんだん定着していくのでしょうね。
ただ、単に言葉の文化が劣化する一方の変化はよろしくないと思います。
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酒と冒険と音楽をこの上なく愛し波乱万丈の人生を送るB型です。
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