"Specify"という言葉
みなさまこんばんは。
関東はついに暑さが戻ってきましたよ。
と言っても今日はまだそれほどではありませんが。
みなさまのところはいかがですか?
2日間の脱線、楽しんでいただけましたか?
ではそろそろ本題へと入って行きましょう。
関東はついに暑さが戻ってきましたよ。
と言っても今日はまだそれほどではありませんが。
みなさまのところはいかがですか?
2日間の脱線、楽しんでいただけましたか?
ではそろそろ本題へと入って行きましょう。
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今回のオープンディスカションアイテムは「日本人はなぜ欧米人よりもとても多く働かなくてはいけないのだろう。しかも余計な気遣いも多いし、調整も軋轢も多そうだ。一体どうなってるんだ? どうしたらよいんだ?」ということです。
単に欧米流のドライな意識になるとかの「掛け声」的な解ではなく、ここでは超本質的な解に迫りたいと思っています。
僕は既にある「解」を考え出したのですが、性急にそれを紹介するのではなく、その検証をも含めて、一つ一つのポイントをじっくりみなさまと考えて行きたいと思っています。よろしくお願いします。
今日は、日本人と欧米人との考え方の基本的な違いの一つを考えてみます。
その一つとして「欧米人はスペックで考え、日本人は阿吽の呼吸で考える」ということが挙げられるでしょう。
今や「品質スペック」とか「人事採用のスペック」などど、日本でも「スペック」という言葉は定着したかに見えます。
スペックは、英語のspecify(動詞)やspecification(仕様書、明細書)の略です、あるいは仕様書に書かれている規格を意味します。
すなわち、全ては"specify"という動詞が大元にあります。
僕の考えでは、specifyという動詞こそ欧米人の考え方の根幹を占める概念だと思います。
日本語には完璧にspecifyに相当する言葉はないと思います。
敢えて訳すと、具体的に記述する、ですが、もっと正確に訳せば、受け手と共通の物差しでしっかり客観的に理解できるように記述する、だと思います。
例えば、ある種の工業製品のメーカーが顧客に製品を納品する場合、その製品の品質や特性が顧客との合意に基づく一定の範囲にあることを保証するために、specを交わす、というのが通常です。
例えば、その材料の硬さはいくらからいくら以内、色はどの範囲内、品質保証期限は何カ月以内・・・とかです。
どのような項目をスペックとして設けるか、そしてどのような規格幅にするかは、メーカーと顧客の間の真剣なディスカションの末決まります。
あるいは、全顧客に対し同一のスペックをメーカー側で最初に決め、それをもって商売する場合もあります。
いずれにしても、要するに、その品物は本来どういうものなのか、どうあるべきなのか、を合理的に記述することが"specify"という言葉です。
欧米人は古くからspecifyという概念を生活の中に取り込んできたようです。
おそらくは、人々の個性や考え方が非常に豊か、というか一人一人違うので、何らかの記述した約束事がないとやっていけなかったからだと思います。
Specifyというのは、物(や人)のことをできうる限り正しい姿で記述する行為ですが、どうしても100%記述することなどできません。
ですので、一旦スペックを決めたからには、その範囲内であれば多少違和感があっても、文句言いっこなしでお金を払わないといけません。
これに対し、「阿吽の呼吸」は具体的に記述した約束事ではありません。
とにかく自分も相手も最も気分よくすんなりと問題なく、物事が進むように計らうことです。
日本は1960年代以降、工業化が進み、そのQC技術は世界一となり、メイド・イン・ジャパンは世界のブランドになりました。
こうしたことを見ると、日本は製品のスペックに精通した国のようにも思えます。
しかし、僕の意見ですが、日本のQC技術はspecifyの精神とは必ずしも一致しないと見ています。
スペックがあろうとなかろうと日本の品質管理は優れていますし、スペック外のクレームも日本には多く、それに対する対応も日本は優れていると思います。
どうやらスペックの文化は欧米が昔からやってきた行動様式の延長にあると見てよいと思います。
スペックを決めるには厳しいディスカションがありますが、一旦決めれば、スペック内の物を合理的に使いこなし、客もまたその先の客も、スペックさえ合えばどんどん使いこなすのです。
それに対し日本はスペックのみで判断せず、顧客との調和も優先します。
Specifyという言葉は、物に対してのみならず、人に対しても使えます。
その人の能力や成果をspecifyする、結婚相手をspecifyする、など。
こうした場合も、日本より欧米の方がspecidyを合理的に行いますね。
どうでしょうか?
Specifyという事柄に関しての欧米と日本の違いに合意されましたですか?
今日はここまでにします。
で、specifyに違いがある場合、ならば日本はどのような戦略に出るべきか、というステップで進んでまいります。
今回のオープンディスカションアイテムは「日本人はなぜ欧米人よりもとても多く働かなくてはいけないのだろう。しかも余計な気遣いも多いし、調整も軋轢も多そうだ。一体どうなってるんだ? どうしたらよいんだ?」ということです。
単に欧米流のドライな意識になるとかの「掛け声」的な解ではなく、ここでは超本質的な解に迫りたいと思っています。
僕は既にある「解」を考え出したのですが、性急にそれを紹介するのではなく、その検証をも含めて、一つ一つのポイントをじっくりみなさまと考えて行きたいと思っています。よろしくお願いします。
今日は、日本人と欧米人との考え方の基本的な違いの一つを考えてみます。
その一つとして「欧米人はスペックで考え、日本人は阿吽の呼吸で考える」ということが挙げられるでしょう。
今や「品質スペック」とか「人事採用のスペック」などど、日本でも「スペック」という言葉は定着したかに見えます。
スペックは、英語のspecify(動詞)やspecification(仕様書、明細書)の略です、あるいは仕様書に書かれている規格を意味します。
すなわち、全ては"specify"という動詞が大元にあります。
僕の考えでは、specifyという動詞こそ欧米人の考え方の根幹を占める概念だと思います。
日本語には完璧にspecifyに相当する言葉はないと思います。
敢えて訳すと、具体的に記述する、ですが、もっと正確に訳せば、受け手と共通の物差しでしっかり客観的に理解できるように記述する、だと思います。
例えば、ある種の工業製品のメーカーが顧客に製品を納品する場合、その製品の品質や特性が顧客との合意に基づく一定の範囲にあることを保証するために、specを交わす、というのが通常です。
例えば、その材料の硬さはいくらからいくら以内、色はどの範囲内、品質保証期限は何カ月以内・・・とかです。
どのような項目をスペックとして設けるか、そしてどのような規格幅にするかは、メーカーと顧客の間の真剣なディスカションの末決まります。
あるいは、全顧客に対し同一のスペックをメーカー側で最初に決め、それをもって商売する場合もあります。
いずれにしても、要するに、その品物は本来どういうものなのか、どうあるべきなのか、を合理的に記述することが"specify"という言葉です。
欧米人は古くからspecifyという概念を生活の中に取り込んできたようです。
おそらくは、人々の個性や考え方が非常に豊か、というか一人一人違うので、何らかの記述した約束事がないとやっていけなかったからだと思います。
Specifyというのは、物(や人)のことをできうる限り正しい姿で記述する行為ですが、どうしても100%記述することなどできません。
ですので、一旦スペックを決めたからには、その範囲内であれば多少違和感があっても、文句言いっこなしでお金を払わないといけません。
これに対し、「阿吽の呼吸」は具体的に記述した約束事ではありません。
とにかく自分も相手も最も気分よくすんなりと問題なく、物事が進むように計らうことです。
日本は1960年代以降、工業化が進み、そのQC技術は世界一となり、メイド・イン・ジャパンは世界のブランドになりました。
こうしたことを見ると、日本は製品のスペックに精通した国のようにも思えます。
しかし、僕の意見ですが、日本のQC技術はspecifyの精神とは必ずしも一致しないと見ています。
スペックがあろうとなかろうと日本の品質管理は優れていますし、スペック外のクレームも日本には多く、それに対する対応も日本は優れていると思います。
どうやらスペックの文化は欧米が昔からやってきた行動様式の延長にあると見てよいと思います。
スペックを決めるには厳しいディスカションがありますが、一旦決めれば、スペック内の物を合理的に使いこなし、客もまたその先の客も、スペックさえ合えばどんどん使いこなすのです。
それに対し日本はスペックのみで判断せず、顧客との調和も優先します。
Specifyという言葉は、物に対してのみならず、人に対しても使えます。
その人の能力や成果をspecifyする、結婚相手をspecifyする、など。
こうした場合も、日本より欧米の方がspecidyを合理的に行いますね。
どうでしょうか?
Specifyという事柄に関しての欧米と日本の違いに合意されましたですか?
今日はここまでにします。
で、specifyに違いがある場合、ならば日本はどのような戦略に出るべきか、というステップで進んでまいります。
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