否定の証明は大変難しい

みなさまこんばんは。
またまた月曜がやってきました。
ブルーマンデーとするのか、何かつかむのか。
もがいてもがいて前を見つめましょう。

まだまだ暑いですけど、ほんの少しずつ秋めいたものを感じますね。
とはいえ引き続き熱中症にはお気を付けください。
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「ある物事はこうである」ということの証明よりも、「その物事はそうではない」ということとか「その物は世の中にない」ということを証明することの方がはるかに難しい。
例えば。
「日本人は勤勉である」ということを証明しようとする。
ある程度の日本人をかき集め、それを母集団にして勤勉な人の数を数え、統計的な傾向を言うのがまず一つ。
そしてなぜそうなるのか、のメカニズムを想定して仮説を立て、ある程度検証し、さらに望ましくは比較例(その条件やメカニズムに乗らない例)を立て、そのアウトプットを本例と比較することで、ほぼ証明されたと言ってよい。

次に、「アメリカ人には勤勉な人はいない」ということを証明しようとする。
まずは統計的な傾向を掴むだけでも大変だ。アメリカ人全体の1%程度の人数を母集団としたところでほとんど意味がない。
そして、「なぜ勤勉ではない」というような「***でない」ものを積極的に導くメカニズムは通常稀だ。
勤勉にするようなさまざまなファクターやメカニズムがどれをとっても働かない、ということを証明していくしかない。
だから、「ある」ことを証明するよりも「ない」ことを証明する方がはるかに作業が多く多次元であるのだ。

同様な意味で、ある人の意見を否定することも難しい。
その意見に合わない例を一つまたは数例見つけてきても、それは単なる例外なのかどうかは見わけはつかない。
せいぜい「当てはまらない場合もある」と言えるぐらいである。
ましてや感覚で否定するなど何の意味もない。

ある人の意見を否定することは、まず一歩としてその意見を理解する必要がある。
理解していないのに否定のしようもない。
理解したなら次に、その意見の筋道や条件や題材の良し悪しを検証して行く。
もし誤っていると思える箇所があれば、それはその他の部分にどのような影響を与えているのか、そして全体の結果にどう影響を与えているのかを検証する。
そしてどうも全体の結果がおかしそうなら、それをさらに上位概念から検証していく。

このように、ある意見を否定するには、その意見が出てきた以上の努力をしないといけないわけだ。
ということは、人の意見を否定するということは、その意見を尊重するところから入らないと否定できないわけだ。
ということは、否定のための否定なんてありえないことだ。

ただ、「***は絶対に***である」というような数学の公理や定理のようなことを否定するには、一つの反例で十分である。
それは数学で習った通り。
普通、人の意見は「100%こうである」のような公理・定理的なものではない。
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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

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鍵コメさん

こんばんは。
それはそれは、鍵コメさんのマンデーは大変でした。
本当にお察しします。
それはまさに、今日の記事とは逆の関係ですね。
是非広いお心でご指導お願いします。・・・しかしね。

フェルマー、ゲーデル

フェルマーの定理は、たった1組でも解が見つかれば、成立しないわけで、ある意味、UFOやネッシーが一体でも見つかれば、存在が証明できるのとは、表裏一体ですが、フェルマーの定理は、数学ですから、理論的に、満たす解が存在しないことが証明できてしまったのですよね。

自然界、人間関係では、理論的な存在または非存在(肯定または否定)の証明が困難ですが、自然現象を扱う物理学では、未知の物質、粒子の存在を仮定することで、現行の理論が成立する、しないといったことから推測していき、やがて存在が確認できると聞きます。
(このあたり、自分の専門でないので、誤解もあるでしょうが…)

ふりかえって、自分自身は、さまざまな事柄に対して、存在、肯定を仮定しながら、ある意味、希望的観測で信じることで、何事も継続していき、やがては証明できたり、成立できれば良いなあと、楽観的な考えです。

ただ、ゲーデルの不完全性定理ではないですが、自己の無矛盾性は、自分の系の中では証明できないわけで、こうしたブログも含めた交流の中から、認め合ったり、ある時は批判し合ったりして、ひとつ上の段階に登れればと、最近思うようになりました。

ギターマジシャンさん

こんばんは。
大変興味深いコメントをどうもありがとうございました。
一コメントにとどまらず、記事になりますね。
証明できる・できないを数学の定理、物理学の問題、そして人間界の生きざま、という3つのフィールドで比較対象するところが、とてもオリジナルでおもしろい考えですね。
僕が記事で一番言いたかったのは、今の日本は安易に批判することがよく見られますので、そもそも批判をきちんと行うには、まずは相対する意見を十分理解するところから始めないといけないでしょう、ということでした。
しかしマジシャンさんのように、批判を前向きに受け入れる人の立場から現実的な振る舞い方も大変重要ですね。

ところでマジシャンさんのそもそものご専門は何ですか?
伺ったことがなかった気がします。

否定は人のためならず?

否定のための否定はありえない。
まったくその通りだと思います。一字一句。

そもそも自然科学の考え方は帰納的であって、そういう思考方法を思いついた人間の営みも帰納的な部分が多いと思うんです。いくつかの事例から、推論はできても、必ずしも真にはなり得ない。それを理解していれば、否定のための否定ってことにはならないはず……だと信じたい。

でも実際は(自戒を持っていうと)、「わたしは○○を見た。だから○○は正しい」と短絡的に結論しちゃうことがとても多い。

あと厄介なのが、「オレはあいつが気に食わん。だからあいつのいうことはすべて間違っている」なんて感情に走っちゃうことでしょうか。さらにいうと、ネットでは匿名性をいいことに誹謗中傷が日常茶飯事で、己の愉悦のためにだけ「否定のための否定」を楽しんでいる人さえいます。

こういった現象を嘆かわしいというのは簡単だし、実際嘆かわしいと思うんですけど、同時にまた、感情があっての人間でもありますからね。難しいものです。露悪的なのもまた人間の本質の一部なのでしょう。横溝正史の、おどろおどろしい世界を、のぞき見したくなるわけですよ(笑)。

ですが、ビジネスの世界は空想ではないので、できる限り理性で考え、論理で話をしたいモノです。ST Rockerさんのブログは、それを思い出させてくれる記事が多くて、目から鱗です。

TERUさん

こんばんは。
この異常な夏もようやく峠を越えましたね。
暑いだけでなく、毎日どこかで起こるピンポイントのゲリラ豪雨。
僕も一度、車のタイヤがかなり浸かるほどの冠水道路を命からがら(?)通り抜けたことが一度ありました。
TERUさんにおかれましてはお変わりありませんでしょうか。

こちらこそいつもありがとうございます。
TERUさんの記事もコメントもいつも新たな問題提起をいただきます。

人の意見を否定するプロセスとはまず人の意見を尊重することだ、と、敢えて極端に書きました。
TERUさんもおっしゃるように、概ねその傾向は正しいかもしれませんね。

でも一方では、おっしゃるように、人間の感情の所産とか、人同志の関わり合いにおいて、物事の論証のプロセスを超えたコミュニケーション(いい意味でも悪い意味でも)もまた必然的に起こりますよね。

自分に与えられる批判も、たとえそれがルール違反だとしても一理ある場合があるし、自分が招いていることもあります。
人に対しては尊重し、人からの意見は尊重する。
そういう態度で臨めれば最高でしょうね。

まだまだ修行の身です。
プロフィール

ST Rocker

Author:ST Rocker
ビートルズ解析ブログへようこそ!
つくば-千葉-さいたま の三角形を行き来していますす。
モットー:理系なのに熱く音楽、政治・経済を語る。
酒と冒険と音楽をこの上なく愛し波乱万丈の人生を送るB型です。
ご気楽にコメントください。

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