あなたのFriday Night Feverは何ですか?
みなさまこんばんは。
台風18号は列島を縦断して駆け抜けて行きました。
みなさまのお家は被害がありませんでしたでしょうか?
さて、みなさまのFriday Night Feverは何ですか?
私37歳の頃の思い出です。
台風18号は列島を縦断して駆け抜けて行きました。
みなさまのお家は被害がありませんでしたでしょうか?
さて、みなさまのFriday Night Feverは何ですか?
私37歳の頃の思い出です。
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私が転職したのは47歳の時でした。
前の会社も今の会社も製造メーカーで、両方とも外資系です。
前の会社ではほとんどを技術者として過しました。
私は学校を卒業して前の会社に勤めて間もなく、それまで自分が培ってきたことだけでは会社ではほとんど何も役に立たないことを知り、ただただ劣等感にさいなまれていました。
そこで32歳の時に考え抜いた末、次の3つのことをやったら何とかなるのではないか、と。
1.人の2倍働く。
2.フルマラソンを完走する。
3.本を週に20冊読む。
これらをやったからと言ってどうなるか、何の保証もありません。
でも、やり遂げたら何らかのことにはなるのではないか、という信念みたいなものはありました。
一度やると決めたら気持ちも吹っ切れて、楽しく進めることができました。
幸い私は、粘り強い努力が得意でした。
以前ブログで書きましたように、今回は前回の1%だけ多くやることを必ず実行すれば、1年もすれば相当進歩するのです。
自分の進歩をはっきり感じられることは楽しいことでした。
それともう一つの喜びは、初めて自分の人生に自分でレールを敷いたことでした。
ろくな目標ではありませんでしたが、他人や世の中から強制される目標よりは飛びぬけてやる気が起きるのでした。
そんな私の30代の生活は、とにかく研究生活、製品開発生活、用途開発といった企業技術者として猛然と働きました。
朝8時から夜11時まで働き、社宅までの7.5kmを毎日走って帰ります。
ノーベル賞の田中耕一さんは企業研究者として大変な自負を持っておられますが、私も技術者としての労働がとても好きでした。
ランニングの方もぐんぐん距離も記録も伸びて行き、いろんな大会へ出るのが楽しみでした。
会社でもランニングクラブを作ったりしました。
私の仕事の多くはエレクトロニクスに関する材料を開発したり用途を開拓したりする仕事でした。
当時隆盛を極めていた日本の半導体メーカー各社へ材料を使ってもらう仕事が多かったのでした。
私37歳の時、当時の会社しか持っていない特殊な樹脂がありまして、その樹脂を半導体の製造工程で採用してもらおうと必死でした。
その樹脂は、ある温度以上なると溶融して流れます。そしてさらに温度を上げるかまたは酸素濃度を高めると硬化を起こして固まります。
ナノレベルの半導体デバイスの凹凸の上にこの樹脂を乗せ、ある温度以上にして溶融させると、その凹凸をきれいに埋め上面は平坦になるのです。
しかるのちに温度を上げるか酸素を導入して固まらせるのです。
半導体デバイスというのはご存じのようにエラーがあってはいけません。あんなに細かく精密な構造なのに、何百万個を一度に製造して、不良品は数個も許されません。
日本の半導体技術者の方々は不可能を可能にしてきた人々です。
今のPCや携帯やIC機器の数々が小型で安くしかも高性能なのは、彼ら彼女らのおかげです。
また日本の国力を高めた大きな立役者も彼ら彼女らです。
そうした半導体メーカーに材料を採用してもらうことは並大抵ではありませんでした。実績のない新材料はなおさらです。
我々の材料の説明のための打合せでは彼ら彼女らの目は超真剣でした。
例えば、溶融平坦化しその後硬化するには、その樹脂がどういう挙動を正確に取るのか、温度や雰囲気の酸素濃度との関係において掴んでいないとプロセス設計ができません。
半導体製造装置の炉の温度の立ち上がりのプロファイルや炉に流すガスの種類と流速をコントロールしないといけません。
そうでないとあの厳しいコストと歩留まりを両立できないからです。
当時すでに猛追を始めていた海外の半導体メーカーにも絶対に負ける訳にはいかなかったのです。
打合せでは我々の樹脂の物性の細かい質問が鬼のように降ってきました。
ところが、漠然とはわかってはいても推定の部分が多過ぎたのでした。
よく「そんなこともわからないんですか!」と怒鳴られたことも少なくありませんでした。
何とか彼ら彼女らに報いたい。
工場の敷地の中にある社宅で寝食を忘れて働く彼ら彼女らに思い切り余暇をエンジョイしてもらいたい。
そんなことを考える毎日でした。
樹脂が溶けたり固まったりする挙動を、温度や酸素濃度との関係で解析する装置は、あるにはありました。
とっても大事な特性の解明ですから、必要な装置だったんです。
でもその装置は引っ張りだこでした。
何週間も先でないと予約できません。しかも2時間くらいの枠しか取れないんです。
それだとポイントのデータしか取れないのです。
しかも高価な装置のため、専任の技術者がメンテしています。
何とかならないかなあ、と思うことしきりでした。
そんなある金曜の夕方のこと。
金曜ともなればみんなやっと解放されるということで、誰もが早く帰ります。
その日もそうでした。
ふと、例の装置が置いてある解析室の前の廊下を通りました。なんか今日はやけに空いているな。
・・・と、そこで電光石火が頭に響き渡りました。「あの装置を使ってやろう!」
本当は予約なしでは使えないルールです。
でも、一応課長にはなっていたので、何か起こったら自分が責任を取ろう、と腹をくくりました。
こうなったらもうやるだけです。一目散に実験を開始しました。
時間がたっぷりあるのだから、データはポイントではなく、面でもなく、4次元でとります。
パラメーターは温度と窒素流量と樹脂の厚みです。
温度の立ち上がり時間も振ります。
こうして全部で何十通りという条件を設定しました。
各条件で同じことを2度やりました(n=2)。
実験終了は朝の5時頃。
幸い装置も絶好調のまま終えました。
途中守衛のおじさんが見回りに来ましたけど、私は夜中の技術者としてすっかり顔なじみでしたから、世間話10分くらいして、「では気を付けてくださいね」と。
結果につきましては、かなり役に立ったと自負しています。
樹脂の採用のきっかけになったと信じています。
何よりお客さんから信頼されましたね。
実はあの時のデータでほとんど論文が1報書けてしまったんです。
以上が私の思い出深いFriday Night Feverです。
あなたのFriday Night Feverは何ですか?
私が転職したのは47歳の時でした。
前の会社も今の会社も製造メーカーで、両方とも外資系です。
前の会社ではほとんどを技術者として過しました。
私は学校を卒業して前の会社に勤めて間もなく、それまで自分が培ってきたことだけでは会社ではほとんど何も役に立たないことを知り、ただただ劣等感にさいなまれていました。
そこで32歳の時に考え抜いた末、次の3つのことをやったら何とかなるのではないか、と。
1.人の2倍働く。
2.フルマラソンを完走する。
3.本を週に20冊読む。
これらをやったからと言ってどうなるか、何の保証もありません。
でも、やり遂げたら何らかのことにはなるのではないか、という信念みたいなものはありました。
一度やると決めたら気持ちも吹っ切れて、楽しく進めることができました。
幸い私は、粘り強い努力が得意でした。
以前ブログで書きましたように、今回は前回の1%だけ多くやることを必ず実行すれば、1年もすれば相当進歩するのです。
自分の進歩をはっきり感じられることは楽しいことでした。
それともう一つの喜びは、初めて自分の人生に自分でレールを敷いたことでした。
ろくな目標ではありませんでしたが、他人や世の中から強制される目標よりは飛びぬけてやる気が起きるのでした。
そんな私の30代の生活は、とにかく研究生活、製品開発生活、用途開発といった企業技術者として猛然と働きました。
朝8時から夜11時まで働き、社宅までの7.5kmを毎日走って帰ります。
ノーベル賞の田中耕一さんは企業研究者として大変な自負を持っておられますが、私も技術者としての労働がとても好きでした。
ランニングの方もぐんぐん距離も記録も伸びて行き、いろんな大会へ出るのが楽しみでした。
会社でもランニングクラブを作ったりしました。
私の仕事の多くはエレクトロニクスに関する材料を開発したり用途を開拓したりする仕事でした。
当時隆盛を極めていた日本の半導体メーカー各社へ材料を使ってもらう仕事が多かったのでした。
私37歳の時、当時の会社しか持っていない特殊な樹脂がありまして、その樹脂を半導体の製造工程で採用してもらおうと必死でした。
その樹脂は、ある温度以上なると溶融して流れます。そしてさらに温度を上げるかまたは酸素濃度を高めると硬化を起こして固まります。
ナノレベルの半導体デバイスの凹凸の上にこの樹脂を乗せ、ある温度以上にして溶融させると、その凹凸をきれいに埋め上面は平坦になるのです。
しかるのちに温度を上げるか酸素を導入して固まらせるのです。
半導体デバイスというのはご存じのようにエラーがあってはいけません。あんなに細かく精密な構造なのに、何百万個を一度に製造して、不良品は数個も許されません。
日本の半導体技術者の方々は不可能を可能にしてきた人々です。
今のPCや携帯やIC機器の数々が小型で安くしかも高性能なのは、彼ら彼女らのおかげです。
また日本の国力を高めた大きな立役者も彼ら彼女らです。
そうした半導体メーカーに材料を採用してもらうことは並大抵ではありませんでした。実績のない新材料はなおさらです。
我々の材料の説明のための打合せでは彼ら彼女らの目は超真剣でした。
例えば、溶融平坦化しその後硬化するには、その樹脂がどういう挙動を正確に取るのか、温度や雰囲気の酸素濃度との関係において掴んでいないとプロセス設計ができません。
半導体製造装置の炉の温度の立ち上がりのプロファイルや炉に流すガスの種類と流速をコントロールしないといけません。
そうでないとあの厳しいコストと歩留まりを両立できないからです。
当時すでに猛追を始めていた海外の半導体メーカーにも絶対に負ける訳にはいかなかったのです。
打合せでは我々の樹脂の物性の細かい質問が鬼のように降ってきました。
ところが、漠然とはわかってはいても推定の部分が多過ぎたのでした。
よく「そんなこともわからないんですか!」と怒鳴られたことも少なくありませんでした。
何とか彼ら彼女らに報いたい。
工場の敷地の中にある社宅で寝食を忘れて働く彼ら彼女らに思い切り余暇をエンジョイしてもらいたい。
そんなことを考える毎日でした。
樹脂が溶けたり固まったりする挙動を、温度や酸素濃度との関係で解析する装置は、あるにはありました。
とっても大事な特性の解明ですから、必要な装置だったんです。
でもその装置は引っ張りだこでした。
何週間も先でないと予約できません。しかも2時間くらいの枠しか取れないんです。
それだとポイントのデータしか取れないのです。
しかも高価な装置のため、専任の技術者がメンテしています。
何とかならないかなあ、と思うことしきりでした。
そんなある金曜の夕方のこと。
金曜ともなればみんなやっと解放されるということで、誰もが早く帰ります。
その日もそうでした。
ふと、例の装置が置いてある解析室の前の廊下を通りました。なんか今日はやけに空いているな。
・・・と、そこで電光石火が頭に響き渡りました。「あの装置を使ってやろう!」
本当は予約なしでは使えないルールです。
でも、一応課長にはなっていたので、何か起こったら自分が責任を取ろう、と腹をくくりました。
こうなったらもうやるだけです。一目散に実験を開始しました。
時間がたっぷりあるのだから、データはポイントではなく、面でもなく、4次元でとります。
パラメーターは温度と窒素流量と樹脂の厚みです。
温度の立ち上がり時間も振ります。
こうして全部で何十通りという条件を設定しました。
各条件で同じことを2度やりました(n=2)。
実験終了は朝の5時頃。
幸い装置も絶好調のまま終えました。
途中守衛のおじさんが見回りに来ましたけど、私は夜中の技術者としてすっかり顔なじみでしたから、世間話10分くらいして、「では気を付けてくださいね」と。
結果につきましては、かなり役に立ったと自負しています。
樹脂の採用のきっかけになったと信じています。
何よりお客さんから信頼されましたね。
実はあの時のデータでほとんど論文が1報書けてしまったんです。
以上が私の思い出深いFriday Night Feverです。
あなたのFriday Night Feverは何ですか?
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